日本書紀 卷廿七 天智紀

天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと) 天智天皇(てんちてんわう)

一、太子稱制與救援百濟

 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇太子(ひつぎのみこ)也。母曰天豐財重日足姬(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇。
 天豐財重日足姬(皇極)天皇四年,讓位於天萬豐日(あめよろづとよひ)天皇。立天皇為皇太子(ひつぎのみこ)
 天萬豐日(孝德)天皇後五年,十月(かむあがり)
 明年皇祖母尊(すめみおやのみこと)即天皇位。
 七年,七月丁巳(廿四),崩。皇太子素服(あきものみそたてまつり)稱制(まつりごときこしめす)
 是月,蘇將軍(定方)突厥王子契苾加力(とつくゑつのせしむけいひつかりき)等,水陸二路(みづくぬがふたみち)至于高麗(こま)城下(さしもと)
 皇太子遷居(うつりおはす)長津宮(ながつのみや),稍聽水表(をちかた)軍政(いくさのまつりごと)
 八月,遣前將軍(まへのいくさのきみ)大花下(だいくゑげ)阿曇比邏夫連(あづみのひらぶのむらじ)小花下(せうくゑげ)河邊百枝臣(かはへのももえのおみ)等,後將軍(しりへのいくさのきみ)大花下阿倍引田(あへのひけたの)比邏夫臣(ひらぶのおみ)大山上(だいせんじやう)物部連熊(もののべのむらじくま)、大山上守君大石(もりのきみおほいは)等,救於百濟(くだら)。仍送兵杖(つはもの)五榖(いつつのたなつもの)或本(あるふみ),續此(すゑ)云:「(ことに)使大山下狹井連檳榔、小山下秦造田來津,守護(まもらしむ)百濟。」】
 九月,皇太子(おはしまし)長津宮,以織冠(おりもののかがふり)授於百濟王子豐璋(ほうしやう)。復以多臣蔣敷(おほのおみこもしき)之妹,()之焉。
 乃遣大山下(だいせんげ)狹井連檳榔(さゐのむらじあぢまさ)小山下(せうせんげ)秦造田來津(はだのみやつこたくつ),率(いくさ)五千餘,衛送(まもりおく)本鄉(もとつくに)
 於是,豐璋入國之時(くににいるとき),福信迎來,稽首(をろがみ)國朝政(くにのまつりごと),皆悉委焉。
 十二月,高麗言:「(この)十二月,於高麗國寒極浿凍(えこほれり)。故唐軍(もろこしのいくさ)雲車(たかくるま)衝輣(つきくるま)鼓鉦吼然(つつみかねとよもす)。高麗士卒(いくさひと)膽勇雄壯(たけくいさむををし)。故更取唐二壘(ふたつのそこ),唯有二塞(ふたつのそこ)。亦備夜取之計(よるとらむはかりこと),唐兵抱膝而哭。(ときさき)(にぶり)力竭(ちからつき),而不能(ぬく)。」噬(ほそ)(はぢ),非此而何?

 是歲播磨國司(はりまのくにのみこともち)岸田臣麻呂(きしたのおみまろ)等獻寶劍(たからのつるぎ)言:「於狹夜郡(さよのこほり)禾田(いなだ)穴內(あな)獲焉。」
 又,日本(やまと)救高麗將軍等,(はて)于百濟加巴利濱(かはりのはま)然火(ひをたく)焉。灰變為孔,有細響(ほそきおと),如鳴鏑(なりかぶら)。或曰:「高麗、百濟終亡之徵(つひにほろびむしるし)乎。」


天智紀 皇室系譜


加巴利濱 扶安海濱 界火島
加巴利濱,『東國輿地勝覽』:「扶安縣,本百濟皆火縣。新羅改扶寧。或稱戒發。」東津江口,有界火島,蓋是。
寶劍,『播磨國風土記』讚容郡中川里云:「昔近江天皇之世,有丸部具。【云云】買取河內國兔寸村人之齎劍也。得劍以後,舉家滅亡。【云云】苫編部犬豬,圃彼地之墟,土中得此劍。【云云】其柄朽失,而其刃不澀。光如明鏡。【云云】劍屈申如蛇。【云云】以為異劍,獻之朝庭。」 救高麗,蓋救百濟之誤矣。然火,同燃火。


州柔、疏留城
州柔,或作州流、周留、豆率、豆陵尹、支羅、疏留。百濟再興末期王城。神功紀有洲流須祇,三國史記云豆陵尹城。
輸者,『毛詩』小雅正月云:「載輸爾載,將伯助予。」鄭箋:「輸者,落也。」此謂落城矣。


鼠子
鼠於馬尾產子違常。道顯占「北國人將附南國。」按干支,鼠者子,北矣。馬者午,南也。故此北國、南國,別指高麗、日本也。


古連旦涇 萬頃江
金堤西北河水之稱,蓋萬頃江。


深泥巨堰 碧骨堤
碧骨堤重修碑云:「郡南十五里許,有大提。名曰碧骨堤。古人舉金堤古名,因以為號焉。」


避城
或云辟中、辟支山,為穀倉地帶。
二、百濟王豐璋歸國,新羅侵害

 元年,春正月辛卯朔丁巳(廿七),賜百濟佐平(さへい)鬼室福信(くゐしつふくしん)矢十萬枝、(いと)五百(はかり)綿(わた)一千斤、(ぬの)一千(むら)(をしかは)一千(ひら)稻種(いなたね)三千(さか)
 三月庚寅朔癸巳()(たまふ)百濟(こきし)布三百端。
 是月唐人(もろこしひと)新羅(しらき)人伐高麗。高麗乞救國家(みかど)。仍遣軍將(いくさのきみ),據疏留城(そるのさし)。由是,唐人不得(かすむ)南堺(みなみのさかひ),新羅不獲(おとす)西壘(にしのそこ)
 夏四月,鼠產於馬尾。釋道顯占曰:「北國(きたくに)之人將附南國(みなみのくに)。蓋高麗(やぶれ),而(つかむ)日本乎。」
 五月大將軍(おほいくさのきみ)大錦中(だいきむちう)阿曇比邏夫連等,率船師(ふないくさ)一百七十艘,送豐璋等於百濟國,宣(みことのり),以豐璋等使繼其(くらゐ)。又予金策(こがねのふみた)於福信,而(かきなで)其背,褒賜爵祿(かがふりもの)。于時,豐璋等與福信稽首受敕,(もろもろ)為流(なみた)
 六月己未朔丙戌(廿八),百濟遣達率(だちそち)萬智(まち)等,進調獻物(ものたてまつる)
 冬十二月丙戌朔(),百濟王豐璋,其臣佐平福信等,與狹井連、【闕名。】朴市田來津(えちのたくつ)議曰:「此州柔(つぬ)者,遠隔田畝(たはたけ)土地磽确(つちやせたり),非農桑(なりはひこかひ)之地,是拒戰之場(ふせきたたかふに)。此焉久處,民可飢饉(うゑぬ)。今可遷於避城(へのさし)。避城者,西北(いぬゐ)帶以古連旦涇(これんたんけい)(かは)東南(たつみ)深泥巨堰(しむでいこえん)(ふせき)(めぐらす)周田(まときた)決渠(みぞをさくり)降雨。華實(はなみ)(くにつもの)三韓(みつのからくに)上腴(よきもの)焉。衣食之源(きものくらひもののみなもと)二儀之隩區(あめつちのくむしら)矣。雖曰地卑(ところくだれり)(あに)不遷歟?」於是,朴市田來津獨進而(あさめ)曰:「避城與敵所在之間(をるあひだ),一夜可行,相近茲甚(これはなはだし)。若有不虞(おもほえぬこと),其(くゆ)難及者矣。夫飢者後也,(ほろび)者先也。今(あた)所以不妄來者,州柔設置山險(やまさか),盡為防禦(ほせき),山峻高(さがし)谿隘(たにせばければ),守易而攻難之故也。若處卑地(みじかきところ),何以固居(かたくをり),而不搖動(うごかず)及今日乎。」遂不聽諫,而(みやこす)避城。
 是歲,為救百濟,修繕(をさめ)兵甲(つはもの)備具(そなへ)船舶(ふね)儲設(まく)軍糧(いくさのかて)是年也,太歲壬戌
 二年,春二月乙酉朔丙戌(),百濟遣達率金受(こむじゆ)進調(みつきたてまつり)
 新羅人燒燔(やき)百濟南畔四州(みなみのほとりのよつのくに),并取安德(あんとく)要地(ぬみのところ)。於是,避城去賊近,故(いきほひ)不能居。乃還居於州柔。如田來津之所(はかる)
 是月,佐平福信上送唐俘(もろこしのとりこ)續守言(しよくしゆげん)等。

三、日本船師,戰敗白村江

 三月,遣前將軍上毛野君稚子(かみつけののきみわくご)間人連大蓋(はしひとのむらじおほふた)中將軍(なかのいくさのきみ)巨勢神前臣譯語(こせのかむさきのおみをさ)三輪君根麻呂(みわのきみねまろ),後將軍阿倍引田臣比邏夫、大宅臣鎌柄(おほやけのおみかまつか),率二萬七千人,打新羅。
 夏五月癸丑朔()犬上君(いぬかみのきみ)【闕名。】馳告兵事(いくさのこと)於高麗而還。見糺解(くげ)石城(しやくのさし)。糺解仍語福信之罪。
 六月,前將軍上毛野君稚子等取新羅沙鼻(さび)岐奴江(きぬえ)二城。
 百濟王豐璋,(うたがひ)福信有謀反心(きみかたぶくるこころ),以(かは)穿(たなうら)而縛。時難自決,不知所為(せむすべしらず)。乃問諸臣曰:「福信之罪,既如此焉。可斬以不(いなや)?」於是達率德執得(とくしふとく)曰:「此惡逆人(あしきひと)不合放捨(ゆるすべからず)。」福信即(つはきはきかけ)於執得,曰:「腐狗癡奴(くちいぬかたくなやつこ)!」王勒健兒(ちからひと),斬而醢首(かうべをすしにす)
 秋八月壬午朔甲午(十三),新羅以百濟王斬己良將(よきいくさのきみ),謀直入國先取州柔。於是百濟知賊所計,謂諸將曰:「今聞:『大日本國(やまとのくに)救將(すくひのいくさのきみ)廬原君臣(いほはらのきみおみ),率健兒萬餘,正當越海而至。』願諸將軍(もろもろのいくさのきみ)等應預圖(あらかじめはかる)之。我欲自往待饗白村(はくすき)。」
 戊戌(十七)賊將(あたのいくさのきみ)至於州柔,繞其王城(こにきしのさし)。大唐軍將率戰船(いくさぶね)一百七十艘,陣烈(つらなれり)白村江(はくすきのえ)
 戊申(廿七),日本船師初至者(まづいたれるもの)與大唐船師合戰(あひたたかふ)。日本不利(まけ)而退,大唐堅(つら)而守。
 己酉(廿八),日本諸將與百濟王,不觀氣象(けのかたち),而相謂(あひかたり)之曰:「我等爭先,彼應自退。」更率日本亂伍(つらみだれたる)中軍之卒(なかのいくさのひとども),進打大唐堅陣之軍(つらかたむるいくさ)。大唐便自左右夾船(かくみ)戰。須臾之際(ときのまに)官軍敗績(みいくさやぶれぬ)。赴水溺死(おぼほれしぬ)者眾。艫舳(へとも)不得迴旋(めぐらす)。朴市田來津仰天而誓,切齒(はをくひしばり)(いかり),殺數十人,於焉戰死。是時,百濟王豐璋與數人,乘船逃去(にげさる)高麗。
 九月辛亥朔丁巳(),百濟州柔城(つぬのさし),始(したがひぬ)於唐。是時,國人(くにひと)相謂之曰:「州柔降矣,事無奈何(いかに)。百濟之名,絕于今日(このひ)丘墓(おくつき)之所,豈能復往(またゆかむ)。但可往於弖禮城(てれのさし),會日本軍將等,相謀事機(ことはかり)(ぬみ)。」遂教本在枕服岐城(しむふくぎのさし)妻子(めこ)等,令知去國之心。
 辛酉(十一)發途(みちたつ)牟弖(むて)
 癸亥(十三),至弖禮。
 甲戌(廿四),日本船師及佐平余自信(よじしん)、達率木素貴子(もくそくゐし)谷那晉首(こくなしんす)憶禮福留(おくらいふくる)國民(くにのたみ)等至於弖禮城。
 明日發船(ふなだち)始向日本。


石城 破陣山
按『三國史記』地理志扶餘郡:「石山縣,本百濟珍惡山縣也。景德王改名,今石城縣。」糺解,豐璋也。『三國遺事』云百濟王:「以解為氏。」朝鮮,解音同日。糺為御子。故糺解有日子之意。


白村江
白村江,或云白村,今錦江河口。又扶餘附近錦江稱白馬江。中國史料書白江、熊津江口,朝鮮史料書白江、伎伐浦。白江比定地,另有東津江河口之說。


白村江之戰
『舊唐書』劉仁軌傳:「仁軌乃別率杜爽、扶余隆率水軍及糧船,自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。余豐脫身而走,獲其寶劍。偽王子扶余忠勝、忠志等,率士女及倭眾並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。」


國立扶餘博物館 劉仁願記功碑
劉仁願,大唐武將。匈奴劉氏出身,從蘇定方滅百濟。
朝散大夫,『大唐六典』云:「從五品下曰朝散大夫。」


前賢故實 藤原鎌足
中臣內臣,此謂藤原鎌足。藤原本氏中臣,封內大臣,故名。


近江國衙跡
淡海國,近江國古稱也。『日本書紀』書近江者六十二例,書淡海者唯此一例。然『古事記』書淡海六例,書近淡海三例,不書近江矣。白村江敗戰,日本心懼中國、新羅聯軍侵攻,自飛鳥牽都近江,近江政權遂而揭幕。


史蹟 大宰府跡 政廳、正殿跡


史蹟 水城跡
近江朝廣設防人、烽火于大宰府四周,亦于筑紫設防衛,是為水城。


朝鮮式山城 鬼城跡西門復原模型
白村江戰敗,近江朝為鞏固國防,多築朝鮮式山城,以禦外犯。


大野山城 石礎跡
四、廿六冠位制與內外之政

 三年,春二月已卯朔丁亥(),天皇命大皇弟(ひつぎのみこ),宜增換冠位階名(かがふりくらゐのしなな)氏上(うぢのかみ)民部(かきべ)家部(やかべ)等事。
 其冠有二十六階(はたちあまりむしな)大織(だいしよく)小織(せうしよく)大縫(だいほう)小縫(せうほう)大紫(だいし)小紫(せうし)大錦上(だいきむじやう)、大錦中、大錦下(だいきむげ)小錦上(せうきむじやう)小錦中(せうきむちう)小錦下(せうきむげ)、大山上、大山中(だいせんちう)、大山下、小山上(せうせんじやう)小山中(せうせんちう)、小山下、大乙上(だいおつじやう)大乙中(だいおつちう)大乙下(だいおつげ)小乙上(せうおつじやう)小乙中(せうおつちう)小乙下(せうおつげ)大建(だいこん)小建(せうこん),是為二十六階焉。
 改前(くゑ)(きむ),從錦至(おつ),加十階。又加換前初位(しょゐ)一階,為大建、小建二階。以此為異,餘並(まま)前。其大氏(おほきうぢ)之氏上賜大刀(たち)小氏(ちひさきうぢ)之氏上賜小刀(かたな),其伴造(とものみやつこ)等之氏上賜干楯(たけ)弓矢(ゆみや)。亦定其民部、家部。
 三月,以百濟王善光王(ぜんくわうわう)等居于難波(なには)。有星(おつ)(みやこ)北。
 是春地震(なゐふる)
 夏五月戊申朔甲子(十七),百濟鎮將(ちんしやう)劉仁願(りうじんぐわん),遣朝散大夫(てうさんたいふ)郭務悰(くわくむそう)等,進表函(ふみはこ)獻物(みつき)
 是月,大紫蘇我連大臣(そがのむらじのおほまへつきみ)(みまかりぬ)【或本,大臣(蘇我臣連子)(しるす)五月。】
 六月嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)薨。
 冬十月乙亥朔(),宣發遣(たてつかはす)郭務悰等敕。是日,中臣內臣(なかとみのうちつまへつきみ)沙門智祥(ほふしちしゃう),賜物於郭務悰。
 戊寅()饗賜(あへたまふ)郭務悰等。
 是月,高麗大臣蓋金(かふこむ)(うせぬ)於其國。遺言(のちこと)於兒等曰:「汝等兄弟(えおと)(あまなはむ)魚水(いをとみづ),勿爭爵位(かがふりくらゐ)。若不如是,必為(となり)咲。」
 十二月甲戌朔乙酉,郭務悰等罷歸。
 是月淡海國(あふみのくに)言:「坂田郡(さかたのこほり)小竹田史身(しのだのふびとむ)豬槽(ゐかふふね)水中,忽然(いね)生。身取而收,日日致(とみ)栗太(くるもと)郡人磐城村主殷(いはきのすぐりおほ)之新婦床席頭端(しきゐのはし)一宿(ひとよ)之間,稻生而(ほいで)。其(あした)垂穎(たりほ)(あからかなり)明日(くるつひ)之夜,更生一穗。新婦(にひしきめ)出庭,兩箇鑰匙(かぎ)自天落前。婦取而與殷,殷得始富。」
 是歲,於對馬嶋(つしま)壹岐嶋(いきのしま)筑紫國(つくしのくに)等,置(さきもり)(とぶひ)。又於筑紫,築大堤(おほつつみ)貯水,名曰水城(みづき)
 四年,春二月癸酉朔丁酉(廿五)間人大后(はしひとのおほきさき)薨。
 是月勘校(かむがふ)百濟國官位階級(つかさのくらゐのしな)。仍以佐平福信之(いさをし),授鬼室集斯(くゐしつしふし)小錦下。【其本位(もとのくらゐ)達率。】復以百濟百姓(たみ)男女四百餘人,居于近江國(あふみのくに)神前郡。
 三月癸卯朔(),為間人大后,(いへでせしむ)三百三十人。
 是月,給神前郡(かむさきのこほり)百濟人田。
 秋八月,遣達率答㶱春初(たふほんしゆんそ),築城於長門國(ながとのくに)。遣達率憶禮福留、達率四比福夫(しひふくぶ)於筑紫國,築大野(おほの)()二城。耽羅(たむら)遣使來潮(まゐけり)
 九月庚午朔壬辰(廿三)唐國(もろこし)遣朝散大夫沂州司馬(きしうしば)上柱國(しやうちうこく)劉德高(りうとくかう)等。【等謂右戎衛郎將(いうじゆゑいろうしやう)上柱國百濟禰軍(ねぐん)朝散大夫柱國(ちうこく)郭務悰。凡二百五十四人。七月二十八日,至于對馬。九月二十日,(いたる)于筑紫。二十二日,進表函焉。】
 冬十月己亥朔己酉(十一),大(けみす)菟道(うぢ)
 十一月己巳朔辛巳(十三),饗賜劉德高等。
 十二月戊戌朔辛亥(十四),賜物於劉德高等。
 是月,劉德高等罷歸(まかりかへりぬ)
 是歲,遣小錦守君大石等於大唐(もろこし)云云(しかしかいふ)【等謂,小山坂合部連石積(さかひべのむらじいはつみ)、大乙吉士岐彌(きしのきみ)吉士針間(きしのはりま)(けだし)(おくれる)唐使人乎。】
 五年,春正月戊辰朔戊寅(十一),高麗遣前部能婁(ぜんほうのうる)等進調。
 是日,耽羅遣王子姑如(こによ)貢獻(みつきたてまつる)
 三月皇太子(中大兄)親往於佐伯子麻呂連(さへきのこまろのむらじ)家,問其所患,慨歎 元從之功(はじめよりつかへまつれるいさをし)
 夏六月乙未朔戊戌(),高麗前部能婁等罷歸。
 秋七月大水(おほみづ)
 是秋(ゆるす)租調(たちからみつき)
 冬十月甲午朔己未(廿六),高麗遣臣乙相(いつさう)奄𨛃(あむす)等進調。大使(おほきつかひ)臣乙相奄𨛃副使(そひつかひ)達相遁(だちさうとん)二位(にゐ)玄武(ぐゑんぶ)若光(にやくくわう)等。】
 是冬京都(みやこ)之鼠向近江移。
 以百濟男女二千餘人居于東國(あづまのくに)。凡不擇緇素(ほふしとしろきぬ),起癸亥年至于三歲,並賜官食(おほやけのいひ)
 倭漢(やまとのあや)沙門智由(ちゆ),獻指南車(しなんのくるま)

五、遷都近江與天皇即位

 六年,春二月壬辰朔戊午(廿七),合葬天豐財重日足姬(齊明)天皇與間人皇女(はしひとのひめみこ),於小市岡上陵(をちのをかのへのみさざき)。是日,以皇孫大田皇女(おほたのひめみこ)葬於陵前之墓。
 高麗、百濟、新羅,皆奉哀(みねたてまつる)御路(おほち)。皇太子謂群臣(まへつきみたち)曰:「我奉皇太后(齊明)天皇之所敕,憂恤(うれへめぐむ)萬民(おほみたから)之故,不起石槨之役(いはきのえだち)。所冀永代(ながきよ)以為鏡誡(あきらかなるいましめ)焉。」
 三月辛酉朔己卯(十九),遷都于近江。是時,天下百姓(おほみたから)不願遷都,諷諫(そへあさむく)者多,童謠(わざうた)亦眾。日日夜夜(ひるよる)失火(みづながれ)處多。
 六月葛野郡(かづののこほり)白鷰(しろつばくらめ)
 秋七月己未朔己巳(十一),耽羅遣佐平椽磨(てんま)等貢獻。
 八月皇太子(中大兄)倭京(やまとのみやこ)
 冬十月,高麗大兄(たいくゐやう)男生(なんしゃう),出城巡國。於是城內二弟聞側助士大夫(ゐたすくるひとども)惡言(あしきこと),拒而勿入。由是男生奔入大唐,謀(ほろぼさむ)其國。
 十一月丁巳朔乙丑(),百濟鎮將劉仁願,遣熊津都督府(ゆうしんのととくふ)熊山縣令(ゆうせんくゑんれい)上柱國司馬法聰(しばはふそう)等,(おくれり)大山下境部連石積(さかひべのむらじいはつみ)等於筑紫都督府(おほみこともちのつかさ)
 己巳(十三),司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博德(いきのむらじはかとこ)、大乙下笠臣諸石(かさのおみもろいは),為送使(おくるつかひ)
 是月,築倭國(やまとのくに)高安城(たかやすのき)讚吉國山田郡(さぬきのくにやまだのこほり)屋嶋城(やしまのき)對馬國(つしまのくに)金田城(かなたのき)
 (うるふ)十一月丁亥朔丁酉(十一),以(にしき)十四(ひき)(ゆはた)十九匹、(あけ)二十四匹、紺布(はなだのぬの)二十四(むら)桃染布(つきそめのぬの)五十八端、(をの)二十六、(なた)六十四、刀子(かたな)六十二枚,賜椽磨等。
 七年,春正月丙戌朔戊子(),皇太子即天皇位(あまつひつぎしらしめす)

 壬辰()(とよのあかり)群臣於內裏(おほうち)
 戊申(廿三),送使博德等服命(かへりことまをす)
 二月丙辰朔戊寅(廿三),立古人大兄皇子(ふるひとのおほえのみこ)倭姬王(やまとひめのおほきみ)皇后(きさき)。遂納四嬪(よたりのみめ)
 有,蘇我山田石川麻呂大臣(そがのやまだのいしかはまろのおほおみ)女,曰遠智娘(をちのいらつめ)【或本云,美濃津子娘(みのつこのいらつめ)。】生一男二女。
  其一曰,大田皇女(おほたのひめみこ)
  其二曰,鸕野皇女(うののひめみこ)。及(しらす)天下,居于飛鳥淨御原宮(あすかのきよみはらのみや),後移宮于藤原(ふぢはら)
  其三曰,建皇子(たけるのみこ)(おふし)不能(ものいふ)

 次有,遠智娘弟,曰姪娘(めひのいらつめ)
  生,御名部皇女(みなべのひめみこ)阿陪皇女(あへのひめみこ)。阿陪皇女及有天下(あめのした),居于藤原宮(ふぢはらのみや),後移都乃樂(なら)

 次有,阿倍倉梯麻呂大臣(あへのくらはしまろのおほおみ)女,曰橘娘(たちばなのいらつめ)
  生,飛鳥皇女(あすかのひめみこ)新田部皇女(にひたべのひめみこ)
 次有,蘇我赤兄大臣(そがのあかえのおほおみ)女,曰常陸娘(ひたちのいらつめ)
  生,山邊皇女(やまのへのひめみこ)
 又有,宮人(みやひと)生男女者四人。
 有,忍海造小龍(おしぬみのみやつこをたつ)女,曰色夫古娘(しこぶこのいらつめ)。生一男二女。
  其一曰,大江皇女(おほえのひめみこ)
  其二曰,川嶋皇子(かはしまのみこ)
  其三曰,泉皇女(いづみのひめみこ)
 又有,栗隈首德萬(くるくまのおびととこまろ)女,曰黑媛娘(くろひめのいらつめ)
  生,水主皇女(もひとりのひめみこ)
 又有,越道君伊羅都賣(こしのみちのきみいらつめ)
  生,施基皇子(しきのみこ)
 又有,伊賀采女(いがのうねめ)宅子娘(やかこのいらつめ)
  生,伊賀皇子(いがのみこ)。後(みな)曰,大友皇子(おほとものみこ)


齊明帝 越智崗上陵/小市崗上陵
齊明帝、建王合葬一墓。按書則間人皇后亦在同陵。


大田皇女 越智崗上墓
齊明帝孫,天武帝妃。


近江大津京 復原模型
六年三月,遷都近江。或作近江宮、近江大津宮、志賀之都。


大津宮跡 錦織遺跡


大津宮跡 志賀宮址碑


倭 高安城 倉庫礎石跡


讚岐 屋嶋城 城門遺構


對馬 金田城 二城戶城門跡


古今偉傑全身肖像 天智帝


燃土燃水獻上圖
越後國產石炭、石油。圖中,前擔甕中納燃水,後擔葛籠藏燃土。


藤原家傳 天智天皇段
按『書紀』所言,近江朝恐大唐,遂多以新政講武,時人嘆天智之世將終。然按『家傳』,似非如此。二者有違者,或『書紀』親天武而貶天智,或家傳所述,贔屓天智,遂有隱晦。

熱田神宮
『古語拾遺』:「草薙神劍者,猶是天璽。自日本武尊愷旋之年,留在尾張國熱田社,外賊偷逃,不能出境。」『熱田神宮緣起』:「新羅沙門道行,盜此神劍,將移本國。竊入于神祠,取劍裹袈裟,逃去伊勢國。一宿之間,神劔脱袈裟,還著本社。道行更還到,練禪禱請。又裹袈裟,逃到攝津,自難波津國解纜歸國。海中失度,更亦漂著難波津。乃或人宣託曰:『吾是熱田神劔也。然被欺妖僧殆著新羅。初裹七條袈裟,脱出還社。後裹九條袈裟,其難解脱。』于時吏民驚怪,東西認求。道行中心作念:『若棄去此劔,則將免捉搦之責。』乃抛棄神劔。劔不離身。道行術盡力窮,拜手自首。遂當斬刑。」按新羅僧云云,蓋為附會。
六、近江京新政

 夏四月乙卯朔庚申(),百濟遣末都師父(まつしふ)等進調。
 庚午(十六),末都師父等罷歸。
 五月五日,天皇縱獦(みかり)蒲生野(かまふの)。于時大皇弟(ひつぎのみこ)諸王(おほきみたち)、內臣及群臣,皆悉從焉。
 六月伊勢王(いせのおほきみ)與其弟王(おとみこ)接日(ひつぎ)而薨。未詳(つばひらかにせず)官位。】
 秋七月,高麗從越之路(こしのみち)遣使進調。風浪(かぜなみ)高,故不得歸。
 以栗前王(くるくまのおほきみ)筑紫率(つくしのかみ)
 于時,近江國講(つはもの),又多置(うまき)而放馬。又越國(こしのくに)燃土(もゆるつち)燃水(もゆるみづ)。又於濱臺(はまのうてな)之下,諸魚覆水而至。又饗蝦夷(えみし)。又命舍人(とねり)等,為宴於所所。時人(ときのひと)曰:「天皇天命將及(みいのちをはりなむ)乎!」
 秋九月壬午朔癸巳(十二),新羅遣沙㖨(さたく)級飡(きふさん)金東嚴(こむとうごむ)等進調。
 丁未(廿六),中臣內臣使沙門法辨(ほふべん)秦筆(しんひち),賜新羅上臣(まかりだろ)大角干(だいかくかん)庾信(ゆしん)船一隻,付東嚴等。
 庚戌(廿九),使布勢臣耳麻呂(ふせのおみみみまろ),賜新羅王輸御調船(みつきたてまつるふね)一隻,付東嚴等。
 冬十月,大唐大將軍英公(えいこう)打滅(うちほろぼす)高麗。
 高麗仲牟王(ちうむわう)建國(くにたつる)時,欲治千歲(ちとせ)也。母夫人(ははのおりくく)云:「若善治國,可得(うべし)也。【若或本,有不可得(うべからじ)也。】但當有七百年之治也。」今此國亡者,(まさに)在七百年之(すゑ)也。
 十一月辛巳朔(),賜新羅王(きぬ)五十匹、綿五百斤、韋一百枚,付金東嚴等。賜東嚴等物,各有差(おのもおのもしなあり)
 乙酉(),遣小山下道守臣麻呂(ちもりおみまろ)吉士小鮪(きしのをしび)於新羅。
 是日,金東嚴等(まかり)歸。
 是歲,沙門道行(だうぎやう)草薙劍(くさなぎのつるぎ),逃向新羅。而中路(みちなか)風雨,芒迷(まとひ)而歸。
 八年,春正月庚辰朔戊子(),以蘇我赤兄臣(めす)筑紫率。
 三月己卯朔己丑(十一),耽羅遣王子久麻伎(くまぎ)等貢獻。
 丙申(十八),賜耽羅王五榖種(いつつのたなつもののたね)。是日,王子久麻伎等罷歸。
 夏五月戊寅朔壬午(),天皇縱獦於山科野(やましなのの)大皇弟(大海人)、藤原內大臣(鎌足)及群臣,皆悉(みなことごとく)從焉。
 秋八月丁未朔己酉(),天皇登高安嶺(たかやすのみね),議欲修城。仍(めぐみ)民疲,止而不作。時人(かまけ)而歎曰:「(まこと)仁愛之德(めぐみうつくしびのいきほひ)不亦寬乎(またゆたかならざむや)。」云云。
 是秋霹礰(かむとけせり)於藤原內大臣(鎌足)家。
 九月丁丑朔丁亥(十一),新羅遣沙飡(ささん)督儒(とくぬ)等進調。

七、藤原鎌足薨并火災、流言、盜賊紛起

 冬十月丙午朔乙卯(),天皇(いでます)藤原內大臣(鎌足)家,親問所患(やまひ)。而憂悴(うれへかじけたる)極甚。乃詔曰:「天道(たすく)仁,何乃虛說(いつはりこと)!積(ほまれ)餘慶,猶是無(しるし)!若有所(もちゐむ),便可以聞(きこゆべし)。」對曰:「臣既不敏(をさなし),當復何言。但其葬事(はぶりのわざ),宜用輕易(おろそかなる)。生則無(つとめ)軍國(おほやけ),死則何敢重難(かさねてなやまさむ)。」云云。時賢(ときのさかしひと)聞而(ほめ)曰:「此之一言,(ひそかに)比於往哲(むかしのさかしひと)善言(よきこと)矣。大樹將軍(たいじゆしやうぐん)(いなびし)賞,(いづれか)可同年而語哉。」
 庚申(十五),天皇遣東宮大皇弟(ひつぎのみこ)於藤原內大臣(鎌足)家,授大織冠(だいしょくくわん)大臣位(おほおみのくらゐ)。仍賜(うぢ)藤原氏(ふぢはらのうぢ)。自此以後,通曰藤原內大臣(ふぢはらのうちのおほおみ)
 辛酉(十六),藤原內大臣薨。

 甲子(十九),天皇幸藤原內大臣家。命大錦上蘇我赤兄臣,奉宣恩詔(めぐみのみことのり),仍賜金香鑪(くがねのかろう)
 十二月,災大藏(おほくら)
 是冬,修高安城,收畿內(うちつくに)田稅(たちから)。于時,災斑鳩寺(いかるがでら)
 是歲,遣小錦中河內直鯨(かふちのあたひくぢら)等,使於大唐。
 又以佐平余自信、佐平鬼室集斯等男女七百餘人,遷居近江國蒲生郡(かまふのこほり)
 (また)大唐遣郭務悰等二千餘人。
 九年,春正月乙亥朔辛巳(),詔士大夫等,大(ゆみいる)宮門內(みやうち)
 戊子(十四),宣朝廷之禮儀(みかどのゐやまひ)行路之相避(みちゆきびとのあひさる)。復禁斷(いさめやむ)誣妄(たはこと)妖偽(およづれこと)
 二月,造戶籍(へのふみた),斷盜賊(ぬすびと)浮浪(うかれびと)
 于時,天皇幸蒲生郡匱迮野(ひさのの),而觀宮地(みやどころ)。又修高安城,積(もみ)(しほ)。又築長門城(ながとのき)一、筑紫城(つくしのき)二。
 三月甲戌朔壬午(),於山御井(やまのみゐ)傍,敷諸神座(かみのみまし),而班幣帛(みてぐら)中臣金連(なかとみのかねのむらじ)祝詞(のりと)
 夏四月癸卯朔壬申()夜半之後(あかつき),災法隆寺(ほふりうじ)。一屋無餘。大雨(ひさめふり)雷震(いかづちなる)
 五月童謠(わざうた)曰:

 六月邑中(むらのなか)(かはかめ)。背書(しん)字,上()(くろ),長六寸許。
 秋九月辛未朔(),遣阿曇連頰垂(あづみのむらじつらたり)於新羅。
 是歲,造水碓(みづうす)冶鐵(かねわかす)


中臣氏,天兒屋根命裔,以祝詞為業。中臣鎌子改姓藤原,稱鎌足。


大宅廢寺跡 傳山階精舍趾
按『家傳』:「薨于淡海之第。」又云:「火葬於山階精舍。」藤原鎌足邸陶原館,後為佛寺,稱山階精舍、山階寺,是為奈良興福寺之前身。或云阿武山古墳,乃鎌足之墓。或云後改葬多武峰。

言法隆寺燒失童謠:「假設板打橋 橋頭袂處歌垣遊 子兮出其遊 乃樂玉手家中在 八重子之刀自矣 縱參歌垣出其遊 無有追悔莫口惜 子兮出其遊 乃樂玉手家中在 八重子之刀自矣


水碓
或云碾磑,借水力輾物之具。


法傳寺藏 大友皇子像


言渡來人授爵表

言渡來人授爵童謠:「非時香菓兮 橘結實際各枝生 橘實生兮雖異枝 然在貫玉時 殊枝相繫貫同緒或云諷外人獲爵,或云讚外人、國人一心。


漏剋 仿天智漏剋模型
漏剋,或云漏刻,水鍾也。天智帝為太子時所造。以漏壺細孔瀉水,驅壺中漏箭以示時。晝夜十二時,各置四剋為量度。
八、大友皇子體制人事發足

 十年,春正月己亥朔庚子(),大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣(こせのひとのおみ),進於殿前(みあらかのまへ),奉賀正事(みかどおがみのこと)
 癸卯(),大錦上中臣金連(なかとみのかねのむらじ)命宣(みことのる)神事(かむごと)。是日,以大友皇子拜太政大臣(おほきまつりごとのおほまへつきみ)。以蘇我赤兄臣為左大臣(ひだりのおほまへつきみ),以中臣金連為右大臣(みぎのおほまへつきみ)。以蘇我果安臣(そがのはたやすのおみ)、巨勢人臣、紀大人臣(きのうしのおみ)御史大夫(ぎよしたいふ)【御史,蓋今之大納言(おほきものまをすつかさ)乎。】
 甲辰()東宮太皇弟(ひつぎのみこ)奉宣,【或本云,大友皇子宣命(みことのりす)。】施行(のりおこなひ)冠位、法度(のり)之事。【法度、冠位之名,(つぶさに)載於新律令(にひしきのりのふみ)。】大赦(おほきにつみゆるす)天下。
 丁未(),高麗遣上部(しやうほう)大相(だいさう)可婁(かる)等進調。
 辛亥(十三),百濟鎮將劉仁願遣李守真(りしゅうしん)上表(ふみたてまつる)
 是月,以大錦下授佐平余自信、沙宅(さたく)紹明(せうみやう)法官大輔(のりのつかさのおほきすけ)。】以小錦下授鬼室集斯。學職(ふみのつかさの)(かみ)。】以大山下授達率谷那晉首、【閑兵法(つはもの)。】木素貴子、(ならへり)兵法。】憶禮福留、【閑兵法。】答㶱春初、【閑兵法。】㶱日比子贊波羅金羅金須(ほんにちひしさんはらこむらこむす)【解(くすり)。】鬼室集信(くゐしつしふしん)(しれり)藥。】以小山上授達率德頂上(とくちやうぢやう)【解藥。】吉大尚(きちだいしやう)【解藥。】許率母(こそちも)【明五經(ごきやう)。】角服牟(ろくふくむ)【閑於陰陽(おむやう)。】以小山下授(あたし)達率等五十餘人。童謠(いはく)

 二月戊辰朔庚寅(廿三),百濟遣臺久用善(だいくようぜん)等進調。
 三月戊戌朔庚子()黃書造本實(きふみのみやつこほんじつ),獻水臬(みづはかり)
 甲寅(十七)常陸國(ひたちのくに)中臣部若子(なかとみべのわくご)。長尺六寸,其生年(うまれしとし)丙辰至於此歲(このとし),十六年也。
 夏四月丁卯朔辛卯(廿五),置漏剋(ろうこく)新臺(あたらしきうてな),始打候時(とき)。動鍾鼓(かねつづみ),始用漏剋。此漏剋者,天皇為皇太子時,始親所製造(つくれる)也,云云。
 是月,筑紫言:「八足之鹿(やつあしのか),生而即死。」
 五月丁酉朔辛丑(),天皇御西小殿(にしのこあんどの)。皇太子、群臣侍(うたげ)。於是,再奏田儛(たまひ)
 六月丙寅朔己巳(),宣百濟三部使人(みたむらのつかひ)所請軍事(いくさのこと)
 庚辰(十五),百濟遣羿真子(げいしんし)等進調。
 是月,以栗隈王(くるくまのおほきみ)筑紫帥(つくしのかみ)
 新羅遣使進調。別獻水牛(すいぎう)一頭、山雞(やまどり)一隻。
 秋七月丙申朔丙午(十一),唐人李守真等,百濟使人等,(ならびに)罷歸。
 八月乙丑朔丁卯(),高麗上部大相可婁等罷歸。
 壬午(十八),饗賜蝦夷。

九、天皇御崩與大海人皇子出家

 九月,天皇寢疾不豫(みやまひ)

 冬十月甲子朔庚午(),新羅遣沙飡金萬物(こんまんもつ)等進調。
 辛未(),於內裏開百佛眼(もものほとけのみめ)
 是月,天皇遣使,奉袈裟(けさ)金鉢(くがねのはち)象牙(きさのき)沉水香(ぢむすいかう)栴檀香(せんだんかう)及諸珍財(めづらしきもの)法興寺(ほふこうじ)佛。
 庚辰(十七),天皇疾病彌留(おもし)。敕喚東宮(まうけのきみ),引入臥內(おほとの),詔曰:「朕疾甚,以後事(のちのこと)屬汝。」云云。於是,再拜(をろがみ)稱疾固辭(いなびまをし),不受曰:「請奉洪業(ひつぎ)付屬(さづけまつり)大后,令大友王(おほとものおほきみ),奉宣諸政(もろもろのまつりごと)。臣請願,奉為(おほみため)天皇,出家(いへでし)修道(おこなひせむ)。」天皇許焉。東宮(大海人)起而再拜,便向於內裏佛殿(ほとけのおほとの)之南,踞坐胡床(あぐら),剃除鬢髮(ひげかみ),為沙門。
 於是,天皇遣次田生磐(すきたのおひは),送袈裟。
 壬午(十九)東宮(大海人)見天皇,請(まかり)吉野修行佛道(おこなひ)。天皇許焉。東宮即入於吉野(よしの)大臣(おほまへつきみ)侍送(おくりたてまつり),至菟道而(かへる)
 十一月甲午朔癸卯(),對馬國司遣使於筑紫大宰府(おほみこともちのつかさ)言:「月生二日,沙門道久(だうく)筑紫君薩野馬(つくしのきみさつやま)韓嶋勝娑婆(からしまのすぐりさば)布師首磐(ぬのしのおびといは)四人從唐來曰:『唐國使人郭務悰等六百人,送使沙宅孫登(そんとう)等一千四百人,總合二千人,乘船四十七隻,俱泊於比知嶋(ひちしま)。相謂之曰:「今吾輩(われら)人船數眾。忽然(たちまち)(かしこ),恐彼防人(さきもり)驚駭(おどろき)射戰。」乃遣道久等,預稍披陳(ひらきまをさしむ)來朝之意(まゐけるこころ)。』」
 丙辰(廿三),大友皇子在內裏西殿(にしとの)織佛像(おりもののほとけのみかた)前,左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣侍焉(はべり)
 大友皇子手執香鑪,先起誓盟(ちかひ)曰:「六人同心,奉天皇詔。若有(たがふこと)者,必被天罰(あまつつみ)!」云云。於是,左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪,隨(つぎて)而起,泣血(なき)誓盟曰:「臣等五人,隨於殿下(きみ),奉天皇詔。若有違者,四天王(してんわう)打!天神地祇(あまつかみくにつかみ),亦復誅罰(つみせむ)三十三天(さむじふさむてん)証知(あきらめしろしめせ)此事。子孫(うみのこ)當絕,家門(いへかど)(ほろびむ)!」云云(しかしかまをす)
 丁巳(廿四),災近江宮(あふみのみや)。從大藏省(おほくらのつかさ)第三倉出。
 壬戌(廿九)五臣(いつたりのまへつきみ)奉大友皇子,盟天皇前。
 是日,賜新羅王絹五十匹、(あしきぬ)五十匹、綿一千斤、韋一百(ひら)
 十二月癸亥朔乙丑(),天皇崩于近江宮。
 癸酉(十一),殯于新宮(にひみや)。于時童謠曰:

 己卯(十七),新羅進調使(みつきたてまつるつかひ)沙飡金萬物等罷歸。
 是歲讚岐國山田郡(さぬきのくにやまだのこほり)人家,有雞子(とりのこ)四足者。
 又大炊省(おほひのつかさ),有八鼎(やつのかなへ)鳴。(あるいは)一鼎(なる),或二或三(ともに)鳴,或八俱鳴。

日本書紀卷廿七 終


佛像開眼式


法興寺 今飛鳥寺


吉野


菟道 宇治
大臣等,按天武紀,是為蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安臣等。


三十三天石窟
按佛教觀,須彌山頂有四峰,各有八天。中央有喜見城,坐帝釋天。并計卅三天。

喻大海人童謠其一:「偉哉御吉野 吉野川鮎得其宿 汝鮎獲所歸 立身安居川島傍 反觀吾身苦 委身水蔥下 復屈身芹下 吾身苦兮難安居或云諷大海人遁隱吉野。
其二:「近江庭臣子 欲解八重層層紐 一紐未能解 然見海人御子矣 鎧袖一觸迎刃解或云大海人將治壬申之亂。
其三:「縱赤駒良馬 憚於行兮真葛原 何以憚如是 何須憚恐借傳言 直來相會豈不善或云,蒼生願大海人直言所思。


鼎鳴者,王室交替之兆。按『漢書』五行志、『史記』周威烈王記可徵之。此諭天武朝之將起。大炊省,後大炊寮也。

【久遠の絆】【卷廿六】【卷廿八】【再臨詔】