日本書紀 卷十九 欽明紀

天國排開廣庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと) 欽明天皇(きんめいてんわう)


伏見稻荷大社
山背國紀伊郡深草里者,在伏見一帶。另,右京區木島坐天照御魂神社【蠶之社】,係秦氏宗廟,以三柱鳥居獨樹一幟聞名。
一、欽明帝與秦大津父

 天國排開廣庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)男大迹(をほど)天皇嫡子(むかひはらのみこ)也。母曰手白香皇后(たしらかのきさき)。天皇愛之,常置左右(みもと)
 天皇幼時(わかくましまししとき)夢,有人云:「天皇寵愛秦大津父(はだのおほつち)者,及壯大(をとこざかり),必有天下(あめのした)。」寐驚(みゆめさむ),遣使普求(あまねくもとめしめ),得自山背國紀伊郡深草里(やましろのくにのきのこほりのふかくさのさと)姓字(うぢな)果如所夢(みいめ)。於是所喜遍身,歎未曾夢(めづらしきいめ)。乃告之曰:「汝有何事?」答云:「無也。但臣向伊勢(いせ)商價來還(まゐける),山逢二狼相鬪(くひあひ)污血。乃下馬洗漱(あらひすすき)口手,祈請(のみ)曰:『汝是貴神(かしこきかみ),而樂麤行(あらきわざ)(もし)獵士(かりひと),見禽尤速。』乃抑止(おしとどめ)相鬪,拭洗血毛(ちぬれたるけ),遂遣放之俱令全命。」天皇曰:「必此報也。」乃令近侍(ちかくつかへ),優寵日新,大致饒富(にぎはひ)。及至踐祚(あまつひつぎしろしめす),拜大藏省(おほくらのつかさ)
 四年,冬十月武小廣國押盾(たけをひろくにおしたて)天皇崩。皇子天國排開廣庭(欽明)天皇令群臣曰:「余幼年淺識(さとりすくなき),未閑政事(まつりごと)山田(やまだ)皇后明閑百揆(もものまつりごと),請就而決。」山田皇后怖謝(かしこまり)曰:「妾蒙恩寵(みめぐみ),山海(いかでか)同。萬機(よろづのまつりごと)之難,婦女(めのこ)安預?今皇子者,(うやまひ)(うつくしび)少,禮下(ゐやまひ)賢者。日中不食(ものもまゐのぼらず)以待(ひと)。加以幼而穎脫(すぐれ),早擅嘉聲(よきな)(ひととなり)寬和(やはらか),務存矜宥(かなしびただめ)。請諸臣(まへつきみたち)等,早令臨登(のぼり)光臨(てりいまし)天下。」

二、天皇即位立后與遷都

 冬十二月庚辰朔甲申(),天國排開廣庭皇子,即天皇位。時年若干(そこばく)。尊皇后曰皇太后(おほきさき)大伴金村(おほとものかなむら)大連、物部尾輿(もののべのをこし)大連為大連(おほむらじ),及蘇我稻目宿禰(そがのいなめのすくね)大臣為大臣(おほおみ),並如故(もとのごとし)
 元年,春正月庚戌朔甲子(十五)有司(つかさ)請立皇后。
 詔曰:「立正妃(むかひめ)武小廣國押盾(宣化)天皇女石姬(いしひめ)為皇后。」是生二男一女。
  長曰,箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおほえのみこ)
  仲曰,譯語田渟中倉太珠敷尊(をさたのぬなくらのふとたましきのみこと)
  少曰,笠縫皇女(かさぬひのひめみこ)【更名,狹田毛皇女(さたけのひめみこ)。】
 二月百濟(くだら)己知部(こちふ)投化。置倭國添上郡山村(やまとのくにのそふのかみのこほりのやまむら)。今山村己知部(やまむらのこらふ)之先也。
 三月蝦夷(えみし)隼人(はやひと),並率眾歸附(まゐきしたがふ)
 秋七月丙子朔己丑(十四),遷都倭國磯城郡磯城嶋(しきのこほりのしきしま)。仍號為磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)
 八月高麗(こま)、百濟、新羅(しらき)任那(みまな),並遣使獻,並脩貢職(みつき)。召集秦人(はだひと)漢人(あやひと)等,諸蕃投化者(くにぐにのおのづからまゐけるひと),安置國郡(くにこほり),編貫戶籍(へのふみた)。秦人戶數(へのかず)總七千五十三戶,以大藏掾(おほくらのまつりごとひと)秦伴造(はだのとものみやつこ)


欽明天皇磯城島金刺宮址
欽明帝元年,遷都倭國磯城郡磯城嶋,是為金刺宮。磯城島,『大和志』云:「在金屋村西南初瀨川南。」金刺者,金物工藝也。金屋,鍛冶師、鑄物師之工房也。


金村神社
延喜式內社 祀大伴金村
三、大伴金村失腳

 九月乙亥朔己卯(),幸難波祝津宮(なにはのはふりつのみや)。大伴大連金村、許勢臣稻持(こせのおみいなもち)、物部大連尾輿等從焉。
 天皇問諸臣曰:「幾許(いくばく)軍卒,伐得新羅?」物部大連尾輿等奏曰:「少許軍卒(いくさ),不可易征。曩者男大迹(繼體)天皇六年,百濟遣使,表請任那上哆唎(おこしたり)下哆唎(あるしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)四縣。大伴大連金村,(たやすく)表請(まをし),許賜所求。由是新羅怨曠積年(うらみることひさし),不可輕爾(たやすく)而伐。」
 於是,大伴金村居住吉(すみのえ)宅,稱疾不朝。天皇遣青海夫人勾子(あをみのおほとじまがりこ)慰問(とぶらふ)慇懃。大連怖謝曰:「臣所疾者,非餘事(あたしこと)也。今諸臣等,謂臣滅任那。故恐怖不朝(つかへまるらざりし)耳。」乃以鞍馬(かざりうま)贈使,厚相資敬(たすけゐやまふ)。青海夫人依實顯奏。詔曰:「久竭忠誠(まこと),莫(うれふる)眾口。」遂不為罪,優寵(あつくめぐみ)彌深。是年也,太歲庚申

四、五妃采納與皇胤

 二年,春三月(めしいれ)五妃。
 元妃,皇后弟,曰稚綾姬皇女(わかやひめのひめみこ)
  是生,石上皇子(いそのかみのみこ)
 次有皇后弟,曰日影皇女(ひかげのひめみこ)【此曰皇后弟,明是檜隈高田天皇女。而列后妃之名,不見母妃(うぢ)與皇女名字(みな),不知出何書。後勘者知之。檜隈高田(ひのくまのたかた)天皇,宣化帝是也。
  是生,倉皇子(くらのみこ)
 次,蘇我大臣稻目宿禰(そがのおほおみいなめのすくね)女,曰堅鹽媛(きたしひめ)【堅鹽,此云きたし(岐拖志)。】生七男六女。
  其一曰,大兄皇子(おほえのみこ)。是為橘豐日尊(たちばなのとよひのみこと)
  其二曰,磐隈皇女(いはくまのひめみこ)【更名,夢皇女(いめのひめみこ)。】初侍祀於伊勢大神(いせのおほみかみ),後(より)姧皇子茨城(とかる)
  其三曰,臘嘴鳥皇子(あとりのみこ)
  其四曰,豐御食炊屋姬尊(とよみけかしきやひめのみこと)
  其五曰,椀子皇子(まろこのみこ)
  其六曰,大宅皇女(おほやけのひめみこ)
  其七曰,石上部皇子(いそのかみべのみこ)
  其八曰,山背皇子(やましろのみこ)
  其九曰,大伴皇女(おほとものひめみこ)
  其十曰,櫻井皇子(さくらゐのみこ)
  其十一曰,肩野皇女(かたののひめみこ)
  其十二曰,橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)
  其十三曰,舍人皇女(とねりのひめみこ)
 次,堅鹽媛同母弟,曰小姊君(をあねのきみ)。生四男一女。
  其一曰,茨城皇子(うまらきのみこ)
  其二曰,葛城皇子(かづらきのみこ)
  其三曰,埿部穴穗部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)
  其四曰,埿部穴穗部皇子(はしひとのあなほべのみこ)【更名天香子(あまつかこ)皇子。一書云,更名住迹(すみと)皇子。】
  其五曰,泊瀨部皇子(はつせべのみこ)

 次,春日日抓臣(かすがのひつめのおみ)女,曰糠子(ぬかこ)
  生,春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ)


欽明帝暨蘇我氏系譜
欽明帝立宣化帝皇女石姬為皇后。復納五妃。皇后妹稚綾姬皇女、日影皇女,蘇我稻目宿禰女堅鹽媛、小姊君,及春日日抓臣女糠子。各有兒息。


穴穗部間人皇后與聖德太子像
皇胤之中橘豐日尊【用明帝】娶埿部穴穗部皇女,產聖德太子。此子篤性佛教,影響甚鉅。詳見推古紀。


任那、新羅、卓淳地緣關係圖
按卓淳、㖨己吞、加羅三國,皆為新羅所滅,而攷其所以,各有其由。卓淳包含貳心,自附內應,由是滅亡。㖨己吞連年遭掠,而任那無能救援,遂而滅亡。加羅國土狹小,不能急備,因而見亡。故知非新羅強盛,乃三國各有內憂矣。加之,昔新羅請援高麗,合攻任那、百濟,尚不剋之。故聖明王斷言新羅難以獨破任那。
五、百濟聖明王,協議復建任那

 夏四月,安羅次旱岐夷吞奚(しかんきいとんけい)大不孫(だいふそん)久取柔利(くすぬり),加羅上首位古殿奚(おこししゆゐこでんけい)卒麻旱岐(そちまのかんき)散半奚(さんはんげ)旱岐兒,多羅(たら)下旱岐夷他(あるしかんきいた)斯二岐(しにき)旱岐兒,子他(こた)旱岐等,與任那日本府吉備臣(やまとのみこともちきびのおみ)【闕名字。】往赴百濟,俱聽詔書(みことのりのふみ)。百濟聖明王(せいめいわう)謂任那旱岐等言:「日本天皇(やまとのすめらみこと)所詔者,全以復建(かへしたて)任那。今用何策,起建(おこしたてむ)任那?(なにぞ)各盡(いさをしき),奉展聖懷(みこころ)。」
 任那旱岐等對曰:「前再三迴(みたび),與新羅議。而無答報(こたへなかりき)。所圖之(むね),更告新羅,尚無報。今宜俱遣使,往奏天皇。夫建任那者,爰在大王(きみ)之意。祇承教旨(をしへのたまふこと),誰敢間言。然任那(さかひ)接新羅,恐致卓淳(とくじゅん)(わざはひ)【等謂㖨己吞、加羅。言卓淳等國,有敗亡(やぶるる)之禍。】
 聖明王曰:「昔我先祖速古王(とほつおやそくこわう)貴首王(くゐしゆわう)之世,安羅(あら)加羅(から)、卓淳旱岐等,初遣使,相通(あひかよはし)厚結親好(したしきむつび),以為子弟(うがら),冀可恒隆。而今被誑(あざむかれ)新羅,使天皇忿怒(いかり),而任那憤恨(うらみ)寡人(おのれ)(あやまり)也。我深懲悔(こりくい),而遣下部中佐平(かほうしそさへい)麻鹵(まろ)城方甲背昧奴(じやうはうかふはいまな)等,赴加羅,會于任那日本府相盟(あひちかはしめき)。以後繫念相續,圖建任那,旦夕無忘。今天皇詔稱:『速建任那。』由是欲共爾曹(なむぢがともがら)謨計,樹立任那等國。宜善圖之(よくはかるべし)。又於任那境,徵召(めし)新羅,問(うけたまはらむや)與不(いなや)。乃俱遣使,奏聞(まをせしめ)天皇,(つつしみ)示教(しめしをしへる)儻如(もし)使人未還之際,新羅(うかがひ)隙,侵逼(せめ)任那,我當往救。不足為憂。然善守備,謹警(つつしみいましめ)無忘。別汝所(いふ),恐致卓淳等禍,非新羅自強故所能為也。其㖨己吞(とくことん)居加羅與新羅境際(さかひ),而被連年(とししきり)攻敗。任那無能救援,由是見亡(ほろぼされる)。其南加羅蕞爾狹小(ちひさくすこしき),不能卒備(にはかにそなふる),不知所(つく),由是見亡。其卓淳上下攜貳(かみしもはなれるふたごころあり),主欲自附,內應(うちあひす)新羅,由是見亡。因斯而觀,三國之敗,(まこと)(ゆゑ)也。昔新羅請(たすけ)於高麗,而攻擊任那與百濟,尚不剋之(かたずありき)。新羅安獨滅任那乎?今寡人與汝(あはせ)力並心,翳賴(おほひたのまば)天皇,任那必起。」因贈物各有差(おのもおのもしなあり)忻忻(よろこび)而還。

六、聖明王,戒慎新羅謀略

 秋七月,百濟聞安羅日本府與新羅通計,遣前部奈率鼻利莫古(ぜんほうなそちびりまくこ)、奈率宣文(せんもん)中部(ちうほう)奈率木刕昧淳(もくらまいじゅん)紀臣(きのおみ)奈率彌麻沙(みまさ)等,【紀臣奈率者,蓋是紀臣娶韓婦(からのをみな)所生。因留百濟,為奈率者也。未詳其父。他皆效此。】使于安羅,召到新羅(しらきにいたる)任那執事(つかさ),謨建任那。
 別以安羅日本府河內直(かふちのあたひ)通計新羅,深責罵之(せめのる)【『百濟本記(くだらほんき)』云:「加不至費直(かふちのあたひ)阿賢移那斯(あけえなし)佐魯麻都(さろまつ)等。」未詳也。】乃謂任那曰:「昔我先祖速古王、貴首王與故旱岐(もとのかんき)等,始約和親(にきびむつぶること)(もて)兄弟(このかみおとと)。於是我以汝為子弟(こいろど),汝以我為父兄(かぞいろね)。共事天皇,俱距強敵(こはきあた),安國全家,至于今日。言念先祖與舊旱岐(もとのかんき)和親之詞,有如晈日(てるひ)。自茲以降,勤修鄰好(ちかきよしみ),遂敦與國(よくに),恩踰骨肉(やから)。善始有終,寡人之所恒願。未審(いふかし),何緣(かろがろし)浮辭(そらごと)數歲(あまたとせ)之間,慨然失志!古人云:『追悔無及!』此之謂也。上達雲際(おほぞら),下及泉中(したつくに),誓神乎今,改咎乎昔,(もはら)隱匿(かくししのぶ)發露(あらはし)所為,精誠通(かみ),深自克責(よくせめむ),亦所宜取。蓋聞:『為人(つぎ)者,貴能負荷先軌(おやのあと),克昌堂構(おやのこと),以成勳業(いたはり)也。』故今追崇先世(さきのよ)和親之好,敬順天皇詔敕(みことのり)之詞,拔取新羅所折(へつれる)之國南加羅(ありひしのから)、㖨己吞等,還屬本貫(もとのくに)遷實(うつしみてて)任那,永作父兄,恒(つかへまつらむ)日本。此寡人之所食不甘(うまからず)味,寢不安(やすからざる)席。悔往戒今之,所勞想(いたはしみおもふ)也。夫新羅甘言希誑(あざむくをねがふ),天下之所知也。汝等妄信(みだりにうけ),既墮人權(ひとのはかりこと)。方今任那境接新羅,宜常設備,豈能弛(まぼり)?爰恐陷罹(おちかかる)誣欺網穽(あざむくあみあな),喪國亡家,為人繫虜(とりこ)。寡人念茲,勞想而不能自安矣。竊聞:『任那與新羅,運策席際(しきゐのきは),現(はち)蛇怪(をろちのしるまし)。』亦眾所知。且夫妖祥(つちのわざはひ)所以戒行,災異(あめのわざはひ)所以悟人。當是,明天(あめ)告誡(つげいましむ)先靈(さきのみたま)徵表(しるし)者也。禍至追悔,滅後思興,(いづく)云及矣。今汝遵余,聽天皇敕,可立任那。何患不成?若欲長存本土(もとのくに),永御舊民(もとのたみ),其謨在茲。可不慎也。」
 聖明王更謂任那日本府曰:「天皇詔稱:『任那若滅,汝則無(よすか)。任那若興,汝則有援。今宜興建任那,使如舊日(もと),以為汝助,撫養黎民(おほみたから)。』謹承詔敕,悚懼(かしこまりおそる)填胸。誓效丹誠(あきらけきこころ),冀隆任那。永事天皇,猶如往日(むかし)。先慮未然(ゆくさき),然後康樂(やすし)。今日本府復能依詔,救助任那,是為天皇,所必褒讚(ほめたたへ),汝身所當賞祿(たまひもの)。又日本卿等(まへつきみたち)久住任那之國,近接新羅之境。新羅情狀(あるかたち),亦是所知。毒害(そこなひ)任那,謨(ふせかむ)日本。其來尚矣(ひさしく),匪唯今年。而不敢動者,近(はぢ)百濟,遠恐天皇。誘事(をこつりつかへ)朝廷,偽和任那。如斯感激(はげます)任那日本府者,以未禽任那之間,偽示伏從之狀。願今候其間隙(ひま),佔其不備,一舉兵而取之。天皇詔敕,勸立南加羅、㖨己吞,非但數十年。而新羅一不聽命,亦卿所知。且夫信敬(うけたまはる)天皇,為立任那,豈若是乎。恐卿等輙信甘言(うまこと),輕被謾語(いつはりごと),滅任那國,奉(はづかしめ)天皇。卿其戒之,勿為他欺。」
 秋七月,百濟遣紀臣奈率彌麻沙、中部奈率己連(これん),來奏下韓(あるしからくに)任那之政,并上表(ふみたてまつる)之。
 四年,夏四月,百濟紀臣奈率彌麻沙等罷之(まかりぬ)
 秋九月,百濟聖明王遣前部奈率真牟貴文(しんむくゐもん)護德己州己婁(ごとくこつこる)物部施德麻哿牟(もののべのせとくまがむ)等,來獻扶南(ふなむ)財物與奴二口。


百濟聖明王像


百濟官位表
十六官品、定員、冠帶者,見記於周書。日本書紀所誌官名或有異。


八幡大菩薩御緣起繪卷
新羅王素旆自服,素組面縛,封圖籍而降之。高麗、百濟聞新羅降於日本,自來營外,叩頭而款。故定內官家,是所謂三韓也。此任那諸國日本府之起也。


廣開土王【好太王】
『日本書紀』屢誌日本府,韓國史料則付之闕如。有云任那日本府為虛構者,甚云任那國亦不實兮。然日『日本書紀』、韓「廣開土王碑」,皆載任那云云。
七、天皇催促復建任那

 冬十一月丁亥朔甲午(),遣津守連(つもりのむらじ),詔百濟曰:「在任那之下韓百濟郡令(こほりのつかさ)城主(きのつかさ),宜附日本府。」并持詔書,宣曰:「(いまし)抗表(ふみたてまつり),稱當建任那,十餘年矣。表奏(まをす)如此,尚未成之。且夫(またそれ)任那者,為爾國之棟樑(むねうつはり),如折棟樑,誰成屋宇()?朕(おもふこと)在茲。爾須早早(すむやけく)建。汝若早建任那,河內直等,【河內直已見上文(かみのくだり)。】自當止退(しりぞく)。豈足云乎?」
 是日,聖明王聞宣敕(みことのり)已,歷問三佐平內頭(さへいないづ)及諸臣曰:「詔敕如是,當復何如(はたいかにかせむ)?」三佐平等答曰:「在下韓之我郡令、城主,不可出之。建國之事,宜早聽聖敕(みことのり)。」
 十二月,百濟聖明王復以(さき)詔,(あまねく)示群臣曰:「天皇詔敕如是。當復何如?」上佐平沙宅己婁(そくさへいさたくこる)中佐平(しそさへい)木刕麻那(もくらまな)下佐平木尹貴(おとさへいもくいんくゐ)德率鼻利莫古(とくそちびりまくこ)、德率東城道天(とうじやうだうてん)、德率木刕昧淳、德率國雖多(こくすゐた)、奈率燕比善那(えんひぜんな)等,同議曰:「臣等稟性(ひととなり)愚闇,都無智略(さとりたばかり)。詔建任那,早須奉敕。今宜召任那執事、國國旱岐等,俱謀同計,抗表述(こころざし)。又河內直、移那斯(えなし)麻都(まつ)等,猶住安羅,任那恐難建之。故亦并表,乞移本處(もとのところ)也。」聖明王曰:「群臣所議,甚(かなへり)寡人之心。」
 是月,乃遣施德高分(せとくかうぶん),召任那執事與日本府執事。俱答言:「過正旦(むつきのつきたち)而往聽焉。」
 五年,春正月,百濟國遣使,召任那執事與日本府執事。俱答言:「祭神時到。祭了(まつりをはり)而往。」
 是月,百濟復遣使,召任那執事與日本府執事。日本府、任那,俱不遣執事,而遣微者(いやしきひと)。由是,百濟不得(ともに)謀建任那國。
 二月,百濟遣施德馬武(めむ)、施德高分屋(かうぶんをく)、施德斯那奴次酒(しなのししゅ)等,使于任那,謂日本府與任那旱岐等曰:「我遣紀臣奈率彌麻沙、奈率己連、物部連(もののべのむらじ)奈率用歌多(ようがた)朝謁(まゐで)天皇。彌麻沙等還自日本,以詔書宣曰:『汝等宜共在彼日本府,早建良圖(よきはかりこと),副朕所望。爾其戒之(いましめよ)。勿被他誑。』又津守連從日本來,【『百濟本記』云:「津守連己麻奴跪(こまなこ)。」而語訛(ことばよこなまり)不正,未詳。】宜詔敕,而問任那之政。故將欲共日本府、任那執事,議定(はかりさだめ)任那之政,奉奏天皇,遣召三迴,尚不來到(まゐこず)。由是不得共(あげつらひ)圖計任那之政,奉奏天皇矣。今欲請留津守連,別以疾使(ときつかひ),具申情狀,遣奏天皇。當以三月十日,發遣使於日本。此使便(すなはち)到,天皇必須問汝。汝日本府卿、任那旱岐等,各宜發使,共我使人(つかひ),往聽天皇所宣之詔。」
 別謂河內直:「【『百濟本記』云:「河內直、移那斯、麻都。」而語訛,未詳其正也。】自昔迄今,唯聞汝惡。汝先祖等,【『百濟本記』云:「汝先那干陀甲背(なかんだかふはい)加臘直岐甲背(からふちきかふはい)。」亦云:「那歌陀甲背(なかだかふはい)鷹歌岐彌(ようかきみ)。」語訛未詳。】俱懷姧偽(かだみいつはる)誘說。為歌可君(ゐかかのきみ)【『百濟本記』云:「為歌岐彌(ゐかきみ),名うひき(有非岐)。」】專信其言,不憂國難(くにのわざはひ)乖背(そむき)吾心,縱肆暴虐(しひわざ)。由是見逐(やらはる)(もはら)汝之由。汝等來往任那,恒行不善(あしきこと)。任那日損,職汝之由。汝是雖(いやし),譬猶小火(いささけきひ)燒焚山野,連延(つらなりほどこる)村邑。由汝行惡,當敗任那。遂使海西諸國(わたのにしのくにぐに)官家,不得長奉天皇之(みかど)。今遣奏天皇,乞移汝等,還其本處。汝亦往(うけたまはれ)。」
 又謂日本府卿(やまとのみこともちのかみ)、任那旱岐等曰:「夫建任那之國,不假(からず)天皇之(みいきほひ),誰能建也?故我思欲就天皇,請將士(いくさ)而助任那之國。將士之(かて),我當須運。將士之數,未限若干。運糧之處,亦難自決。願居一處,俱論可不(よしあし),擇從其善,將奏天皇。故(しきり)遣召,汝猶不來,不得議也。」
 日本府答曰:「任那執事,不赴召者,是由吾不遣(つかはさざる),不得往之。吾遣奏天皇,還使宣曰:『朕當以印歌臣(いかのおみ)【語訛未詳。】遣於新羅。以津守連,遣於百濟。汝待聞敕(あひだ)。莫自勞往新羅、百濟也。』宣敕如是。會聞印歌臣使於新羅,乃(おひ)遣問天皇所宣。詔曰:『日本臣與任那執事,應就新羅,聽天皇敕。』而不宣:『就百濟聽命也。』後津守連遂來過(きたりよきり)此,謂之曰:『今余被遣於百濟者,將出在下韓之百濟郡令、城主。』唯聞此說,不聞:『任那與日本府,會於百濟,聽天皇敕。』故不往焉,非任那(こころ)。」
 於是,任那旱岐等曰:「由使來召,便欲往參。日本府卿不肯發遣(たてまだし),故不往焉。大王(きみ)為建任那,觸情曉示(さとししめす)。覩茲忻喜(よろこぶる),難可(つぶさに)申。」

八、百濟奏請遣還親新羅官人

 三月,百濟遣奈率阿乇得文(あとくとくもん)許勢(こせ)奈率歌麻(かま)物部(もののべ)奈率歌非(かひ)等,上表曰:「奈率彌麻沙、奈率己連等,至臣蕃(やつかれがくに),奉詔書曰:『爾等宜共在彼日本府,同謀善計,早建任那。爾其戒之,勿被他誑。』又津守連等至臣蕃,奉敕書,問建任那。恭承來敕(みことのり),不敢停時,為欲共謀。乃遣使召日本府與任那。【『百濟本記』云:「遣召烏胡跛臣(うこはのおみ)。」蓋是的臣也。】俱對言:『新年(あらたしきとし)既至,願過而往。』久而不就(まゐでず)。復遣使召。俱對言:『祭時既至,願過而往。』久而不就。復遣使召。而由遣微者,不得同計。夫任那之不赴(まゐこぬ)召者,非其意焉。是阿賢移那斯、佐魯麻都,【二人名也,已見上文。】姧佞(かだみいつはり)之所作也。夫任那者以安羅為兄,唯從其意。安羅人者以日本府為(かぞ),唯從其意。【『百濟本記』云:「以安羅為父,以日本府為(もと)也。」】的臣(いくはのおみ)、吉備臣、河內直等,咸從移那斯、麻都指撝(さしまねく)而已。移那斯、麻都,雖是小家(すこしきいへ)微者,專(ほしきまま)日本府之政。又(かとり)任那,(さへ)而勿遣。由是不得同計奏答天皇。故留己麻奴跪,【蓋是津守連也。】別遣使迅如飛鳥(とぶとり),奉奏天皇。假使二人,【二人者,移那斯與麻都也。】在於安羅,多行姧佞,任那難建,海西諸國,必不獲事。伏請,(うつし)此二人,還其本處。敕喻日本府與任那,而圖建任那。故臣遣奈率彌麻沙、奈率己連等,(そへ)己麻奴跪,上表以聞。於是詔曰:『的臣等,【等者謂吉備弟君臣(きびのおときみのおみ)、河內直等也。】往來新羅,非朕心也。曩者,印支彌(いきみ)【未詳。】阿鹵(あろ)旱岐在時,為新羅所逼,而不得耕種(なりはひ)。百濟路(とほく),不能救急。由的臣等往來新羅,方得耕種。朕所曾聞。若已建任那,移那斯、麻都,自然卻退(しりぞかむ),豈足云乎?』伏承此詔,喜懼兼(ふつころ)。而新羅誑朝,知匪天敕(おほみこと)。新羅春取㖨淳(とくじゅ),仍擯出(おひいだし)我久禮山(まもり),而遂有之。近安羅處,安羅耕種。近久禮山(くれむれ)處,新羅耕種。各自耕之,不相侵奪(あひおかしうばはず)。而移那斯、麻都,過耕他界(ひとのさかひ),六月逃去。於印支彌後來許勢臣時,【『百濟本記』云,我留印支彌之後至既酒臣(こせのおみ)時。皆未詳。】新羅無復侵逼他境。安羅不言為新羅逼不得耕種。臣嘗聞:『新羅每春秋(とし),多聚兵甲,欲襲安羅與荷山(のむれ)。』或聞:『當襲加羅。』頃得書信(ふみつかひ),便遣將士,擁守任那,無懈息(おこたりやすむ)也。頻發銳兵(ときいくさ),應時往救。是以任那隨(とき)耕種,新羅不敢侵逼。而奏:『百濟路迥,不能救急,由的臣等往來新羅,方得耕種。』是上欺天朝(みかど)(いよいよ)成姧佞也!曉然若是(あらはにかくあること),尚欺天朝,自餘虛妄(うつはりこと),必多有之。的臣等猶住安羅,任那之國恐難建立。宜早退卻(しりぞけ)。臣深懼之,佐魯麻都雖是韓腹(からのはら),位居大連。(まじはり)日本執事之間,入榮班貴盛(さかえたふとき)之例。而今反著新羅奈麻禮冠(なまれのかがふり)。即身心歸附,於他易(あらはれ)(つらつら)觀所作,都無怖畏。故前奏惡行(あしきわざ),具錄聞訖。今猶著他服,日赴新羅(くに),公私往還,都無所憚。夫㖨國(とくのくに)之滅,匪由他也。㖨國之函跛(かんへ)旱岐貳心加羅國,而內應新羅,加羅自外合戰,由是滅焉。若使(たとひ)函跛旱岐不為內應,㖨國雖少,未必亡也。至於卓淳,亦復然之(またしかり)。假使卓淳國主(にりむ)不為內應新羅招(あた),豈至滅乎?歷觀諸國敗亡(ほろびたる)之禍,皆由內應貳心人者。今麻都等腹心(うるはしくす)新羅,遂著其服往還旦夕(あしたゆふべ),陰構姧心(かだみごころ)。乃恐任那由茲(ひたぶる)滅。任那若滅,臣國孤危(ひとりあやふし)。思欲朝之,豈復得耶?伏願天皇玄鑑(はるかにてらし) 遠察(とほくにみそなはす),速移本處,以(やすみし)任那。」
 冬十月,百濟使人(つかひ)奈率得文、奈率歌麻等罷歸。


任那
朝鮮古國金海加羅國之別名。另有金官加羅、狗邪韓國、狗邪國、大伽耶等別稱。該國於百濟首露王時,皇紀七零二年建立,歷時九代四百九十年而亡於皇紀一一九二年。係海上要衝。


㖨淳
㖨淳或曰卓淳。二年四月「卓淳等禍。」意指卓淳為新羅所滅。本段「春取㖨淳」,指亡於該年春季。


荷山 昌寧燒紫芒祭昌寧大文字
軍事要衝,居久知波多枳城對岸。

韓腹,此云任那之女所生。


㖨國,㖨己吞之意也。


大江水
聖明王云新羅、安羅之境有大江水,要害之地也。


久禮山


御名部
御名部,地名辭書:「佐渡北端加茂郡鷲崎、願。」


禹武邑
地名辭書:「加茂郡加茂村梅津」


前賢故實 膳巴提便


川原
民直者,東漢氏之分枝矣。
九、任那興繼計劃

 十一月,百濟遣使,召日本府臣(やまとのみこともちのまへつきみ)、任那執事曰:「遣朝天皇奈率得文、許勢奈率哥麻、物部奈率哥非等,還自日本。今日本府臣及任那國執事,宜來(うけたまはり)敕,同議任那。」日本吉備臣、安羅下旱岐大不孫、久取柔利,加羅上首位古殿奚、卒麻(きし)、斯二岐君、散半奚君兒,多羅二首位訖乾智(にしゆゐこちけんち),子他旱岐,久嵯(こさ)旱岐,仍(ゆく)百濟。
 於是,百濟王聖明略以詔書示曰:「吾遣奈率彌麻佐(みまさ)、奈率己連、奈率用哥多(ようかた)等,朝於日本。詔曰:『早建任那。』又津守連奉敕,問成任那。故遣召之。當復何如,能建任那?請各陳(はかりこと)。」吉備臣、任那旱岐等曰:「夫建任那國,唯在大王。欲冀(ねがはく)遵王,俱奏聽敕。」
 聖明王謂之曰:「任那之國與吾百濟,自古以來,約為子弟。今日本府印岐彌(いきみ)【謂,在任那日本臣名也。】既討新羅,更將代我。又樂聽新羅虛誕謾語(いつはりごと)也。夫遣印岐彌於任那者,本非侵害(をかしそこなははむ)其國。【未詳。】往古來今,新羅無道。(いつはり)(そむく)信,而滅卓淳。股肱(たすけ)之國,欲快返悔。故遣召到,俱承恩詔(めぐみのみことのり),欲冀興繼(おこしつぎ)任那之國,猶如舊日,(とこしへ)兄妹(いろせいろも)。竊聞:『新羅、安羅兩國之境,有大江水(おほきなるかは)要害(ぬみ)之地也。』吾欲據此,修繕(をさめつくらむ)六城。謹請天皇三千兵士,每城(さしごと)充以五百,并我兵士,勿使作田(たつくり)逼惱者(わづらはさば),久禮山之五城,(ねがはく)自投(つはもの)降首。卓淳之國亦復當興。所請兵士,吾給衣糧(きものかて)。欲奏天皇,其策一也。猶於南韓(ありしひのから),置郡令、城主者,豈欲違背天皇,遮斷貢調(みつき)之路?唯庶(よく)多難(さはのわざはひ),殲撲強敵。凡厥凶黨(あしきあた),誰不謀附?北敵強大(こはくおほき),我國微弱(をぢなくよわし)。若不置南韓郡領、城主,修理防護(をさめりまもる),不可以(ふせく)此強敵,亦不可以制新羅。故猶置之,攻逼新羅,撫存(たもつ)任那。若不爾者,恐見滅亡,不得朝聘(つかへまつる)。欲奏天皇,其策二也。又吉備臣、河內直、移那斯、麻都,猶在任那國者,天皇雖詔建成任那,不可得也。請移此四人,各遣還其本邑(もとのむら)。奏於天皇,其策三也。宜與日本臣(やまとのまへつきみ)、任那旱岐等,俱奉遣使,同奏天皇,乞聽恩詔。」
 於是,吉備臣、旱岐等曰:「大王所述三策,亦協愚情(わがこころ)而已。今願歸以敬(まをし)日本大臣(まへつきみ)【謂,在任那日本府之大臣也。】安羅(こにきし)、加羅王,俱遣使同奏天皇。此誠千載一會之期(ちとせひとたびのちぎり),可不深思而(うまく)計歟。」
 十二月越國(こしのくに)言:「於佐渡嶋(さどのしま)御名部(みなべ)碕岸(さき),有肅慎(みしはせ)人,乘一船舶而淹留(とどまる)。春夏捕魚充食。彼嶋之人言:『非人也。』亦言:『鬼魅(おに)。』不敢近之。嶋東禹武邑(うむのさと)人採拾椎子(しひ)為欲熟喫,著灰(なか)炮。其皮甲(かは)化成二人,飛騰(とびあがる)火上一尺餘許,經時相闘。邑人深以為(あやし),取置於庭。亦如前飛,相闘不已。有人占云:『是邑人必為魅鬼所迷惑(まとはされむ)。』不久如言,被其抄掠(かすめ)。於是肅慎人移就瀨波河浦(せなかはのうら)。浦神嚴忌(いちはやく),人不敢近。(みづにうゑ)飲其水,死者且半。骨積於嚴岫(いはほのくき),俗呼肅慎隈(みしはせのくま)也。」
 六年,春三月,遣膳臣巴提便(かしはでのおみはすひ),使于百濟。
 夏五月,百濟遣奈率其㥄(ごれう)、奈率用歌多、施德次酒等上表。
 秋九月,百濟遣中部護德菩提(ぼだい)等,使于任那。贈吳財(くれのたから)於日本府臣及諸旱岐,各有差。
 是月,百濟造丈六佛像(ぢやうろくほとけのみかた)。製願文(ことねがひのふみ)曰:「蓋聞:『造丈六佛,功德(のりのわざ)甚大。』今(うやまひ)造。以此功德,願天皇獲勝善之德(すぐれるみいきほひ),天皇所用彌移居(みやけ)國,俱蒙福祐(さいはひ)。又願普天之下一切眾生(あめのしたのしかしながらいけるもの),皆蒙解脫(やすらかなること)。故造之矣。」
 冬十一月,膳臣巴提便還自百濟言:「臣被遣使,妻子(めこ)逐去(したがひてまかる)。行至百濟(はま)【濱,海濱(うみのはま)也。】日晚(ひくれ)停宿。小兒(わらは)忽亡,不知所之。其夜大雪,天曉(よあけ)始求,有虎連跡(つづけるあと)。臣乃帶刀()甲,尋至巖岫(いはほのくき)。拔刀曰:『敬受絲綸(みことのり)劬勞(たしなみ)陸海(くぬがうみ)(くしけづり)(ゆするあみし)雨,藉草(かやをまくら)班荊(うばらをしきゐ)者,為愛其子,令紹父業也。惟汝威神(かしこきかみ),愛子一也。今夜兒亡。追蹤覓至(まぎいたる)。不畏亡命,欲報故來。』既而其虎進前,開口欲噬。巴提便忽申左手,執其虎舌,右手刺殺,剝取(はぎとり)皮還。」
 是年,高麗大亂,被誅殺(ころさるる)者眾。

 七年,春正月甲辰朔丙午(),百濟使人中部奈率己連等罷歸。仍賜以良馬(よきうま)七十匹、船一十隻。
 夏六月壬申朔癸未(十二),百濟遣中部奈率掠葉禮(けいせふらい)等,獻調。
 秋七月,倭國今來郡(いまきのこほり)言:「於五年春,川原民直宮(かはらのたみのあたひみや)【宮,名。】登樓騁望(みやる),乃見良駒(よきこま)紀伊國漁者(きのくにのあま)負贄草馬(めうま)之子也。】()影高(いばえ),輕超母()。就而買取,襲養(かふ)兼年。及壯,鴻驚龍(ひひり),別(ともがら)(たむら)服御(のりもちゐる)隨心,馳驟(はせうぐつ)合度。超渡大內丘(おほちのをか)(たに)十八丈焉。川原民直宮,檜隈邑(ひのくまのさと)人也。」
 是歲,高麗大亂。凡闘死(たたかひしぬ)者二千餘。

十、百濟求援日本

 八年,夏四月,百濟遣前部德率真慕宣文(しんもせんもん)、奈率歌麻等,乞救軍。仍貢下部東城子言(とうじやうしごん),代德率汶休麻那(もんくまな)
 九年,春正月癸巳朔乙未(),百濟使人前部德率真慕宣文等請罷。因詔曰:「所乞救軍(すくひのいくさ),必當(つかはす)救。宜速(かへりこといへ)王。」
 夏四月壬戌朔甲子(),百濟遣中部杆率(かんそち)掠葉禮等奏曰:「德率宣文等奉敕至臣(くに)曰:『所乞救兵,應時遣送(おくりつかはす)。』(つつしみ)承恩詔,嘉慶無限(よろこぶかぎりなし)。然馬津城(ましんのさし)(えだち)【正月辛丑(),高麗率眾,圍馬津城。】虜謂之曰:『由安羅國與日本府,招來(まねききたり)勸罰。』以事准況(なずらふ),寔當相似。然三迴欲審(つばひらかにせむ)其言,遣召而並不來。故深勞念。伏願,可畏天皇(かしこきすめらみこと)西蕃(にしのとなりのくに)皆稱日本天皇,為可畏天皇。】先為勘當(かむがへる)。暫停所乞救兵,待臣遣報。」
 詔曰:「式聞呈奏(いたせるまをしごと),爰覿所憂,日本府與安羅,不救鄰難,亦朕所(いたむ)也。又復(しのびに)使于高麗者,不可信也。朕命即自遣之,不命何容可得(いかにぞほしきままにせむ)?願王開(ころものくび)緩帶,恬然(しづかに)自安,勿深疑懼。宜共任那,依前敕,戮力俱防北敵(きたのあた),各守所封。朕當遣送若干人,充實安羅逃亡空地(ほろぶむなしきところ)。」
 六月辛酉朔壬戌(),遣使詔于百濟曰:「德率宣文取歸以後,當復何如?消息何如?朕聞,汝國為狛賊(こまのあた)(やぶる)。宜共任那,策勵(はかりはげみ)同謀,如前防距(ふせけ)。」
 閏七月庚申朔辛未(十二),百濟使人掠葉禮等罷歸(まかりかへりぬ)
 冬十月,遣三百七十人於百濟,助築城於得爾辛(とくにし)
 十年,夏六月乙酉朔辛卯()將德久貴(しやうとくこんくゐ)固德馬次文(ことくめしもん)等請罷歸。因詔曰:「延那斯(えなし)、麻都,陰私(ひそかに)遣使高麗者,朕當遣問虛實(いつはりまこと)。所乞軍者,依願停之。」
 十一年,春二月辛巳朔庚寅(),遣使詔于百濟,【『百濟本記』云:「三月十二日辛酉,日本使人阿比多(あひた)率三舟,來至都下(くに)。」】曰:「朕依施德久貴、固德馬進文(ことくめしんもん)等所上表意,一一(つばひらかに)教示,如視掌中(たなうら)。思欲(つぶさにせむ)情,冀將盡抱。大市頭(だいしづ)歸後,如常無異。今但欲審報辭(かへりごと),故遣使之。又復聞:『奈率馬武是王之股肱臣也。納上傳下,甚(かなひ)王心,而為王(たすけ)。』若欲國家(くに)無事,長作官家(みやけ),永奉天皇,宜以馬武為大使(おほつかひ),遣(みかど)而已。」
 重詔曰:「朕聞:『北敵強暴(あらし)。』故賜矢三十具,庶防一處。」
 夏四月庚辰朔(),在百濟日本王人(みつかひ),方欲還之。【『百濟本記』云:「四月一日庚辰,日本阿比多還也。」】百濟王聖明謂王人曰:「任那之事,奉敕堅守(かたくまもれり)。延那斯、麻都之事,問與不問,唯從敕之。」因獻高麗奴六口,別贈王人奴一口。【皆攻爾林(にりむ),所(とれる)奴也。】
 乙未,百濟遣中部奈率皮久斤(ひこんこん)、下部施德灼干那(やくかんな)等,獻狛虜(こまのとりこ)十口。
 十二年,春三月,以麥種(むぎたね)一千(ちさか),賜百濟王。
 是歲,百濟聖明王親率眾及二國兵,【二國謂新羅、任那也。】往伐高麗,獲漢城(かんじやう)之地。又進軍討平壤(へいじやう)。凡六郡之地,復故地(もとのところ)
 十三年,夏四月,箭田珠勝大兄皇子(みうせぬ)
 五月戊辰朔乙亥(),百濟、加羅、安羅,遣中部德率木刕今敦(もくらこむとん)河內部阿斯比多(かふちべのあしひた)等奏曰:「高麗與新羅,通和并勢,謀滅臣國(やつかれのくに)與任那。故謹求請救兵,先攻不意(おもひのほか)。軍之多少,隨天皇敕。」詔曰:「今百濟王、安羅王、加羅王,與日本府臣等,俱遣使奏狀聞(をはりぬ)。亦宜共任那,并心一力。猶尚若茲(なほしかくのごとくせば),並蒙上天擁護(あめのいだきまぼる)(いきほひ),亦賴可畏天皇之(みたまのふゆ)也。」


馬津城
唐『李勣奏狀』:「馬津城者,本孤山。」即孤山縣矣。又孤、獨音同,故馬津城蓋孤山城是野。


雄津 公山城
百濟都亡,于皇紀一一三五年,南遷雄津。欽明帝所詔「各守所封」者,或指此地。或指所割賜百濟之任那四縣。


漢城
漢城,大城之謂也。蓋鹵王廿一年,高句麗長壽王陷漢城,百濟遷都雄津。至聖明朝,終得光復。


平壤 京畿道北漢山
或稱南平壤。『新羅本紀』憲德王十七年云:「欲立都平壤,攻北漢山。」今日所稱平壤,以平安南道者著。與此相違。


善光寺如来緣起繪
百濟獻一光三尊佛金銅像。善光寺緣起者,係記述善光寺御本尊之來歷所成之靈驗譚。起自印度月蓋長者,經百濟聖明王傳至日本,後遭棄流,終為本田善光拾獲,善光寺遂以開山。平安末期傳遍日本。


善光寺緣起 朝臣眾議
物部尾輿、中臣鎌子,恐國神降禍,諫天皇勿祀蕃佛。天皇付蘇我稻目宿禰令祭於向原寺。


善光寺御緣起 毀佛滅寺
禮佛以降,國中疫病,民致夭殘,故以棄佛。


善光寺御緣起 投佛堀江
焚像而無損,有司遂流棄佛像於難波堀江,火燔伽藍【寺廟】


世尊寺
聖德太子所創卌八寺之比曾寺跡,亦吉野寺後身。


東聖山 城壁跡


和漢三才圖會 火箭
十一、佛法公傳

 冬十月,百濟聖明王,【更名聖王(せいわう)。】西部姬氏達率怒唎斯致契(せいほうきしだちそちぬりしちけい)等,獻釋迦佛金銅像(しゃかほとけのかねのみかた)(はしら)幡蓋(はたきぬがさ)若干、經論(きやうろん)若干卷。別表(ことにふみし),讚流通(ひとにあまねはす)禮拜(みづからをがむ)功德云:「是(みのり)於諸法中,最為殊勝(ことにすぐれる)。難解難入。周公(しうこう)孔子(こうし),尚不能知。此法能生無量無邊福德果報(いきほひむくい),乃至成辨無上菩提(すぐれたるぼだい)。譬如人懷隨意寶(こころのままなるたから),逐所須用,盡依情,此妙法(たへなるのり)亦復然(またしかり)。祈願依情,無所乏。且夫遠自天竺(てんぢく),爰(いたる)三韓,依教奉持,無不尊敬。由是百濟王臣明(やつかれめい)謹遣陪臣(はべるまへつきみ)怒唎斯致契,奉傳帝國(みかど),流通畿內(くぬち)。果佛所記:『我法東流(ひむがしにつたはらむ)』。」
 是日,天皇聞已,歡喜踊躍(ほどはしる),詔使者云:「朕從昔來,未曾得聞如是微妙之法(くはしきのり)。然朕不自決。」乃(ことごとく)問群臣曰:「西蕃獻佛,相貌端嚴(きらぎらし),全未曾看,可禮以不(ゐやまふべきやいなや)?」
 蘇我大臣稻目宿禰奏曰:「西蕃諸國,一皆禮之。豐秋日本(とよあきづやまと),豈獨背也?」物部大連尾輿、中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ),同奏曰:「我國家(みかど)之王天下者,恒以天地社稷百八十神(あめつちくにいへももあまりやそかみ),春夏秋冬,祭拜(まつり)(わざ)方今(いま)改拜蕃神(あたしくにのかみ),恐致國神(くにつかみ)之怒。」天皇曰:「宜付情願人(ねがふひと)稻目宿禰,試令禮拜(ゐやまふをがむ)。」大臣跪受而忻悅(よろこび),安置小墾田家(をはりだのいへ)。懃修出世業,為因淨捨向原(むくはら)家為寺。
 於後,國行疫氣(えやみ),民致夭殘(わかじに)。久而愈多,不能治療(をさめいやす)。物部大連尾輿、中臣連鎌子,同奏曰:「昔日不須臣計,致斯病死(やみしに)!今不遠(すむやけ)而復,必當有慶。宜早投棄,懃求後福!」天皇曰:「依奏。」有司乃以佛像,流棄難波堀江(ほりえ),復縱火於伽藍(てら),燒燼更無餘。於是,天無風雨,忽災大殿(おほとの)
 是歲,百濟棄漢城與平壤。新羅因此入居漢城,今新羅之牛頭方(ごづはう)尼彌方(にみはう)也。【地名,未詳。】
 十四年,春正月甲子朔乙亥(十二),百濟遣上部(しやうほう)德率科野次酒(しなのししゆ)杆率禮塞敦(かんそちらいそくとん)等,乞軍兵。
 戊寅(十五),百濟使人中部杆率木刕今敦、河內部阿斯比多等罷歸。
 夏五月戊辰朔()河內國(かふちのくに)言:「泉郡茅渟海(いづみのこほりのちぬのうみ)中,有梵音(のりのおと)震響(ひびき)若雷聲,光彩晃曜(てりかかやく)日色(ひのいろ)。」天皇心異之,遣溝邊直(いけへのあたひ)【此但曰直,不書名字()。蓋是傳寫誤失矣。】入海求訪。
 是時,溝邊直入海,果見樟木(くすのき)浮海玲瓏(てりかかやく)。遂取而獻天皇。命畫工(ゑたくみ),造二軀(ふたはしら)。今吉野寺(よしののてら)放光樟像也。
 六月,遣內臣(うちのおみ)【闕名。】使於百濟。仍賜良馬二匹、同船(もろきふね)二隻、弓五十張、箭五十具。敕云:「所請軍者,隨王所須。」別敕:「醫博士(くすしのはかせ)易博士(やくのはかせ)曆博士(こよみのはかせ)等,宜依(つがひ)上下。今上件(しな)人正當相代(あひかはらむ)年月,宜付還使相代。又,卜書(うらのふみ)曆本(こよみのためし)、種種藥物(くすり),可付送。」
 秋七月辛酉朔甲子(),幸樟勾宮(くすのまがりのみや)。蘇我大臣稻目宿禰奉敕遣王辰爾(わうじんに),數錄船賦(ふねのみつき)。即以王辰爾為船長(ふねのつかさ)。因賜(かばね)船史(ふねのふびと),今船連(ふねのむらじ)之先也。
 八月辛卯朔丁酉(),百濟遣上部奈率科野新羅(しなのしらき)、下部固德汶休帶山(もんきゅうたいせん)等,上表曰:「去年(いにしとし)臣等同議,遣內臣德率次酒、任那大夫(まへつきみ)等,奏海表(わたのほか)彌移居(官家)之事。伏待恩詔,如春草之仰甘雨(あまきあめ)也。今年忽聞,新羅與狛國通謀云:『百濟與任那,頻詣日本。意謂(おもふに)是乞軍兵,伐我國於歟。事若實者,國之敗亡,可企踵(たちどころに)而待。庶先日本兵未發之間,伐取安羅,絕日本路。』其謀若是。臣等聞茲,深懷危懼(あやぶみおそる)。即遣疾使輕舟(かろきふね),馳表以聞。伏願天慈(みうつくしび),速遣前軍(まへのいくさ)後軍(しりへのいくさ),相續來救。逮于秋節(あきごろ),以固海表彌移居(官家)也。若遲晚(おそく)者,噬(ほそ)無及矣!所遣軍眾(いくさ),來到臣國,衣糧之(あたひ),臣當充給(あてたまふ)。來到任那,亦復如是。若不堪給,臣必助充,令無乏少。(ことに)的臣敬受天敕,來撫臣蕃,夙夜乾乾(つとにおきよはにいねていとなみて),勤修庶務(もろもろのまつりごと)。由是,海表諸蕃,皆稱其善。謂當萬歲肅清(しづめる)海表。不幸云亡(ここにみうせぬ)。深用追痛(おひいたむ)。今任那之事,誰可修治(をさむ)?伏願天慈,速遣其代,以鎮任那。又復海表諸國,甚(ともし)弓馬。自古迄今,受之天皇,以禦強敵。伏願天慈,多(たまはらむ)弓馬。」
 冬十月庚寅朔己酉(廿),百濟王子餘昌(せしむよしやう)明王(めいわう)子,威德王(ゐとくわう)也。】悉發國中兵,向高麗國,築百合野塞(ゆりののそこ)眠食(いねものくらふ)軍士。是夕觀覽(はるかにみはるかせば)鉅野墳腴(おほのうぐもちこえ)平原瀰迤(ながきはらひろくのび)人跡罕見(ひとのあとまれらにみ)犬聲蔑聞(いぬのこゑきくことなし)。俄而儵忽之際(たちまち),聞鼓吹(つづみふえ)之聲。餘昌乃大驚,打鼓相應,通夜(よもすがら)固守。凌晨(ほのぐらき)起見,曠野之中,覆如青山,旌旗(はた)充滿。
 會明(あけぼの),有著頸鎧(あかへのよろひ)者一騎,插(くすび)者二騎,【鐃字未詳。】豹尾(なかつかみのを)者二騎,并五騎,連轡(うちととのふ)到來問曰:「少兒等(わらはども)言:『於吾野中,客人(まらひと)有在。』何得不迎禮也。今欲早知與吾可以禮問答(とひこたふ)姓名年位(うぢなとしくらゐ)。」餘昌對曰:「姓是同姓(ひとつうぢ),位是杆率,年二十九矣。」百濟反問。亦如前法(さきののり)而對答焉。遂乃立(しるし)而合戰。
 於是,百濟以(ほこ)刺墮(さしおとす)高麗勇士(いくさびと)於馬,斬首。仍刺舉(かうべ)於鉾末,還入示眾。高麗軍將(いくさのきみ)憤怒(いきどほりふつくむ)益甚。是時百濟歡叫(よろこびさけぶ)之聲,可裂天地。復其偏將(そひのいくさのきみ),打鼓疾闘(とくたたかふ)追卻(おひしりぞく)高麗王於東聖山(とうじやうせん)之上。
 十五年,春正月戊子朔甲午(),立皇子渟中倉太珠敷尊(敏達)為皇太子。
 丙申(),百濟遣中部木刕施德文次(もくらせとくもんじ)、前部施德曰佐分屋(をさぶんをく)等於筑紫(つくし),諮內臣、佐伯連(さへきのむらじ)等曰:「德率次酒、杆率塞敦等,以去年閏月(うるふつき)四日到來(いたり)云:『臣等(まへつきみたち)【臣等者,謂內臣也。】來年(こむとし)正月到。』如此噵而未審(いふかし)。來不也,又軍數幾何(いくさのかずいくばく)?願聞若干,預治營壁(いほりそこ)。」別諮:「方聞:『奉可畏天皇之詔,來詣(まゐで)筑紫,看送(みおくらむ)賜軍。』聞之歡喜,無能比者(たぐひなし)。此年之役,甚危於前。願遣賜軍,使(およぶ)正月。」於是,內臣奉敕答報曰:「即令遣助軍數一千、馬一百(ももぎ)、船四十隻。」
 二月,百濟遣下部杆率將軍三貴(いくさのきみさむくゐ)、上部奈率物部烏(もののべのかく)等,乞救兵。
 仍貢,德率東城子莫古(とうじやうしまくこ),代前番(さきのつかひ)奈率東城子言。五經博士王柳貴(ごきやうはかせわうりうくゐ),代固德馬丁安(めちゃうあん)僧曇慧(ほふしどむゑ)等九人,代僧道深(だうじむ)等七人。別奉敕,貢易博士施德王道良(わうだうりやう),曆博士固德王保孫(わうほうそん),醫博士奈率王有㥄陀(わううれうだ)採藥師(くすりかりはかせ)施德潘量豐(はんりやうぶ)、固德丁有陀(ちやううだ)樂人(うたまひのひと)施德三斤(さむこん)季德己麻次(きとくこまし)、季德進奴(しんぬ)對德進陀(たいとくしんだ)。皆依請代之。
 三月丁亥朔(),百濟使人中部木刕施德文次等罷歸。
 夏五月丙戌朔戊子(),內臣率舟師(ふないくさ),詣于百濟。
 冬十二月,百濟遣下部杆率汶斯干奴(もんしかんぬ),上表曰:「百濟王臣明及在安羅諸倭臣等,任那諸國旱岐等奏,以斯羅無道(あぢきなし),不畏天皇。與狛同心,欲殘滅海北彌移居(官家)。臣等共議,遣有至臣(うちのおみ)等,仰乞軍士,征伐斯羅。而天皇遣有至臣(內臣),帥軍以六月至來。臣等深用歡喜。以十二月九日,遣攻斯羅。臣先遣東方領(とうほうのあづかり)物部莫哥武連(まかむのむらじ),領其方軍士,攻函山城(かむむれのさし)有至臣(內臣)所將來民筑紫物部莫奇委沙奇(まかわさか),能射火箭(ひや)。蒙天皇威靈(かしこきみたま),以月九日酉時(ゆふへ),焚城拔之。故遣單使(ひとへつかひ),馳船奏聞。」別奏:「若但斯羅者,有至臣(內臣)所將軍士,亦可足矣。今狛與斯羅,同心戮力。難可成功。伏願,速遣竹斯嶋(つくしのしま)上諸軍士,來助臣國。又助任那,則事可成。」又奏:「臣別遣軍士萬人(よろづたり),助任那。并以奏聞。今事方急,單船遣奏。但奉好錦(よきにしき)二匹、毾㲪(おりかも)一領、(をの)三百口,及所獲城民(さしのたみ),男二女五。輕薄追用悚懼(かしこまる)。」

十二、聖明王見弒與威德王繼嗣

 餘昌謀伐新羅。耆老(おきなども)諫曰:「天未(くみ),懼禍及。」餘昌曰:「老矣,何怯也(おづる)?我事大國,有何懼也?」遂入新羅國,築久陀牟羅塞(くだむらのそこ)。其父明王憂慮(うれへおもひはからふ):「餘昌長苦行陳(いくさ),久廢眠食(いねものくらふ)。父慈多闕,子孝希成。」乃自往迎慰勞(ねぎらふ)
 新羅聞明王親來,悉發國中兵,斷道擊破。是時新羅謂佐知村(さちすき)飼馬奴苦都(こつ)【更名谷智(こくち)曰:「苦都賤奴(いやしきやつこ)也。明王名主也。今使賤奴殺名主,冀傳後世(のちのよ),莫忘於口。」已而,苦都乃獲明王,再拜曰:「請斬王首。」明王對曰:「王頭不合受奴手。」苦都曰:「我國法違背所(ちかふ),雖曰國王(くにのこきし),當受奴手。」【一本云,明王乘踞胡床(あぐら),解授佩刀於谷知(こくち)令斬。】明王仰天大息涕泣(なげきいさつ)許諾(ゆるす)曰:「寡人每念,常痛入骨髓(ほね)顧計(はかるに)不可(いやしく)活。」乃延首受斬。苦都斬首而殺,掘(あな)而埋。

 餘昌遂見圍繞(かくまれ),欲出不得。士卒遑駭(あわて),不知所圖(せむすべ)。有能射人,筑紫國造(つくしのくにのみやつこ)。進而彎弓(ゆみひきまかなひ)占擬(さしまかなひ)射落新羅騎卒最勇壯者(いさみたけきひと)。發箭之利,通所乘鞍前後橋(まへつくらほねしりつくらほね),及其被甲領會(よろひのくび)也。復續發箭如雨,彌厲不懈,射卻圍軍。由是餘昌及諸將等,得從間道(かくれみち)逃歸。餘昌讚國造射卻圍軍,尊而名曰鞍橋君(くらじのきみ)【鞍橋,此云くらじ(矩羅膩)。】
 於是,新羅將等,具知百濟疲盡,遂欲謀滅(はかりほろぼし)無餘。有一將云:「不可。日本天皇以任那事,屢責吾國。況復謀滅百濟官家,必遭後患(のちのうれへ)。」故止之。
 十六年,春二月,百濟王子餘昌遣王子(くゑい)【王子惠者,威德王之弟也。】奏曰:「聖明王為賊見殺。【十五年,為新羅所殺。故今奏之。】」天皇聞而傷恨(いたみ),迺遣使者,迎津慰問(やすめとふ)
 於是,許勢臣問王子惠曰:「為當(はた)欲留此間(ここ)?為當欲向本鄉(もとのくに)?」惠答曰:「依憑天皇之德,冀報考王(ちちのこきし)之讎。若垂哀憐(あはれぶること),多賜兵革(つはもの)雪垢(はぢをきよめ)復讎,臣之願也。臣之去留,敢不唯命是從?」俄而蘇我臣訊問:「聖王妙達天道地理(あめのみちつちのことわり),名流四表八方(よもやも)。意謂,永保安寧(やすらけきこと),統領海西蕃國(となりのくに),千年萬歲,奉事天皇。豈圖,一旦眇然昇遐(はるかにわかれる),與水無歸,即安玄室(くらきや)。何痛之(からき),何悲之(あからしき)。凡在含情(こころあるもの),誰不傷悼(いたまざらむ)。當復何咎,致茲禍也?今復何(すべ),用鎮國家?」
 惠答報之曰:「臣稟性愚蒙(くらく),不知大計(おほきなるたばかり)。何況禍福所倚,國家存亡(たもちほろぶ)者乎。」蘇我卿曰:「昔在天皇大泊瀨(おほはつせ)之世,汝國為高麗所逼,危甚累卵。於是天皇命神祇伯(かむつかさのかみ),敬受策於神祇(あまつかみくにつかみ)祝者(はふり)迺託神語(かむごと)報曰:『屈請(つつしみいます)建邦之神,往救將亡之(ぬし),必當國家謐靖(しづまり),人物乂安(やすからむ)。』由是請神往救,所以社稷安寧。原夫建邦神(くにをたてしかみ)者,天地割判(ひらけわかれし)之代,草木言語(ものがたりせし)之時,自天降來,造立國家之神也。頃聞,汝國(すてて)而不祀。方今悛悔(あらためくい)前過,修理神宮(かむみや),奉祭神靈(かみのみたま),國可昌盛(さかえぬ)。汝當莫忘。」
 秋七月已卯朔壬午(),遣蘇我大臣稻目宿禰、穗積磐弓臣(ほづみのいはゆみのおみ)等,使于吉備(きび)五郡,置白豬屯倉(しらゐのみやけ)
 八月,百濟餘昌謂諸臣等曰:「少子(われ)今願,奉為考王,出家(いへです)修道。」諸臣、百姓(たみども)報言:「今君王欲得出家修道者,且奉(みことのり)也。嗟夫前慮(さきのおもひはかり)不定,後有大患,誰之過歟?夫百濟國者,高麗、新羅之所爭欲滅。自始開國,迄于是歲,今此國宗(くにのまつり),將授何國?要須(あるべき)道理分明應教。縱使(もし)能用耆老之言,豈至於此?請悛前過,無勞(なかれ)出俗。如欲果願,須度(いへでせしむ)國民。」餘昌對曰:「諾。」即就圖於臣下(まへつきみたち)。臣下遂用相議,為度百人,多造幡蓋,種種功德。云云(しかしかいふ)
 十七年,春正月,百濟王子惠請罷。仍賜兵仗(つはもの)、良馬甚多。亦頻賞祿。眾所欽歎(たふとみほむる)。於是遣阿倍臣(あへのおみ)、佐伯連、播磨直(はりまのあたひ),率筑紫國舟師,衛送達國。別遣筑紫火君(ひのきみ)【『百濟本記』云:「筑紫君兒火中君(ひのなかのきみ)弟。」】勇士(たけきいくさ)一千,衛送彌弖(みて)【彌弖,津名。】因令守津路要害之地(ぬみのところ)焉。
 秋七月甲戌朔己卯(),遣蘇我大臣稻目宿禰等於備前兒嶋郡(きびのみちのくちのこしまのこほり)置屯倉。以葛城山田直瑞子(かづらきのやまだのあたひみづこ)田令(たつかひ)【田令,此云たつかひ(陀豆歌毘)。】
 冬十月,遣蘇我大臣稻目宿禰等於倭國高市郡(たけちのこほり),置韓人大身狹屯倉(からひとのおほむさのみやけ)【言韓人者,百濟也。】高麗人小身狹屯倉(こまびとのをむさのみやけ)紀國(きのくに)海部屯倉(あまのみやけ)【一本云:「以處處韓人,為大身狹屯倉田部。高麗人為小身狹屯倉田部。是即以韓人、高麗人為田部(たべ)。故因為屯倉之()也。」】
 十八年,春三月庚子朔(),百濟王子餘昌嗣立(つぎてたつ)。是為,威德王。


久陀牟羅
古集落居陀,在居昌矣。或云在函山城。牟羅,音與村【むら】同。


佐知村
按『三國史記』,聖明王為三年山郡高干都刀所弒。故佐知村者,蓋在三年山郡歟。


前賢故實 物部尾輿


高仙之里
仿白豬屯倉之農舍。白豬屯倉跡地者,有大庭郡說、【『續日本紀』有美作國大庭郡白豬臣云云。】吉備屯倉總倉說,【以白豬、備前兒島屯倉關係匪淺,或云統括備前個地所在屯倉者云云。】及兒島屯倉別名等說。


彌弖
今稱彌助,朝鮮音彌弖、彌助音似。彌弖是為三韓經蟾津江至日本之交通要衝。


穴門
穴門館,所在未詳。按『延喜式兵部省,蓋在長門國臨門驛附近。後改號臨海館,『本朝無題詩』有藤原通憲「遊長州臨海館」云云。


更荒郡
按『和名抄』,即讚良郡是也。按持統紀,有更荒郡、鸕野讚良皇女云云,即知古時更荒、讚良二稱並行。天武紀有娑羅羅馬飼造,可知此地嘗用以飼馬。
十三、新羅,殲滅任那

 二十一年,秋九月,新羅遣彌至己知奈末(みちこちなま),獻調賦。饗賜(すぎ)常。奈末喜歡而罷曰:「調賦使者,國家之所貴重,而私議之所輕賤。行李(つかひ)者,百姓之所懸命,而選用(えらひもちゐらるる)之所卑下。王政之弊(こきしのまつりごとのつひえ),未必不由此也。請差良家(うまひと)子為使者,不可以卑賤(いやしきひと)為使。」
 二十二年,新羅遣久禮叱及伐干(くれしきふばつかん),貢調賦。司賓(まらうとのつかさ)饗遇禮數(おとる)常。及伐干忿恨而罷。
 是歲,復遣奴氐大舍(ぬてださ),獻前調賦。
 於難波大郡(おほこほり),次序諸蕃(くにぐにのまらひと)掌客額田部連(をさむるつかさぬかたべのむらじ)葛城直(かづらきのあたひ)等,使列于百濟之下而引導(ひきみちびく)。大舍怒還。不入館舍(むろつみ),乘船歸至穴門(あなと)。於是修治穴門館(あなとのむろつみ)。大舍問曰:「為誰客造?」工匠河內馬飼首押勝(たくみかふちのうまかひのおびとおしかつ)欺紿曰:「遣問西方(にしのかた)無禮使者之所停宿處(とどまりやどるところ)也。」大舍還國,告其所言。故新羅築城於阿羅波斯山(あらはしむれ),以備日本。
 二十三年,春正月,新羅打滅(うちほろぼしつ)任那官家。

 夏六月,詔曰:「新羅西羌小醜(にしのひなのすこしきいやしき),逆天無狀(あぢきなし)。違我恩義(めぐみのことわり),破我官家。毒害我黎民,誅殘我郡縣(くにこほり)。我氣長足姬(おきながたらしひめ)靈聖聰明(くしひさとしあきらか),周行天下,劬勞(いたはり)群庶,饗育(やしなふ)萬民。哀新羅所窮見歸(よれる),全新羅王將戮之首,授新羅要害之地,崇新羅非次(こえたる)之榮。我氣長足姬尊(神功皇后),於新羅何薄?我百姓(おほみたから),於新羅何怨?而新羅長戟(ながきほこ)強弩(つよきゆみ)凌蹙(しのぐせめる)任那,鉅牙(おほきなるき)鉤爪(まがれるつめ),殘虐含靈(おほみたから)(さき)(きり)趾,不厭其快。曝骨焚屍,不謂其酷。任那族姓(やから)、百姓以還,窮刀極(まないた),既屠且(なます)。豈有率土之賓(くぬちのひと),謂為王臣(きみやつこ),乍食人之(あは),飲人之水,孰忍聞此,而不悼心(こころにいたまじ)!況乎太子(ひつぎのみこ)大臣(まへつきみ),處趺蕚之親(みあなすゑのむつまじき),泣血銜冤寄。當蕃屏之任(かくれまがきのよさし),摩頂至(くびす)之恩。世受前朝(さきのみかど)之德,身當後代之位。而不能瀝膽抽腸(いをしたてておもひをぬく),共誅姧逆(かだましくさかれる),雪天地之痛酷(いたみごと),報君父之仇讎(あだ),則死有恨臣子之道(やつこらまこどものみち)不成。」
 是月,或有(しこぢる)馬飼首歌依(うたより)曰:「歌依之妻逢臣讚岐(あふのおみさぬき)(したぐら)有異。熟而熟視(つらつらみれば),皇后御鞍(おほみよそひ)也。」即收廷尉(ひとやつかさ)鞫問極切(かむがへとふこといたし)。馬飼首歌依乃揚言(ことあげ)誓曰:「虛也,非實(まことにあらず)。若是實者,必被天災(あめのわざはひ)!」遂因苦問(たしなめとはる),伏地而死。
 死未經時,急(ひのわざはひ)殿(おほとの)。廷尉收縛其子守石(もりし)名瀨冰(なせひ)【守石、名瀨冰,皆名也。】將投火中,【投火為(つみ),蓋古之制(いにしへののり)也。】呪曰:「非吾手投,以(はふり)手投。」呪訖欲投火。守石之母祈請(のみまをし)曰:「投兒火裏(ひのうち),大災果臻(はたしていたらむ)。請付祝人(はふりべ),使作神奴(かむやつこ)。」乃依母請,許沒神奴。
 秋七月己巳朔(),新羅遣使獻調賦(みつき)。其使人知新羅滅任那,恥背國恩(みかどのめぐみ),不敢請罷。遂留不歸本土,例同國家百姓(みかどのおほみたから)。今河內國更荒郡鸕鶿野邑新羅人(さららのこほりのうののさとのしらきのひと)之先也。

十四、大葉子悲歌

 是月,遣大將軍(おほきいくさのきみ)紀男麻呂宿禰,將兵出哆唎(たり)副將(そひのいくさのきみ)河邊臣瓊缶出居曾山(こそむれ)。而欲問新羅攻任那之狀。遂到任那,以薦集部首登弭(こもつめべのおびととみ),遣於百濟,約束(ちぎりむすぶ)軍計。登弭仍宿妻家,落印書(しるしのふみ)弓箭(ゆみや)於路。新羅具知軍計(いくさのたばかり)。卒起大兵(おほきなるいくさ),尋屬敗亡(やぶれ),乞降歸附(まゐしたがはむ)
 紀男麻呂宿禰(きのをまろのすくね)取勝旋師(いくさをめぐらし),入百濟營。令軍中曰:「夫勝不忘敗,安必慮危,古之善教(ときのり)也。今處疆畔(さかひ)豺狼交接(あたあひまじはる)。而可輕忽(かるがるしくわすれる),不思變難(のちのわざはひ)哉?況復(いはむやまた)平安之世,刀劍不離於身。蓋君子(さかしきひと)武備(たけきそなへ),不可以(やむ)。宜深警戒,務崇斯令!」士卒(いくさのひとども)皆委心而服事焉。
 河邊臣瓊缶(かはへのおみにへ)獨進轉闘(いよいよたたかひ)所向(むかふところ)皆拔。新羅更舉白旗(しらはた),投兵降首(したがふ)。河邊臣瓊缶元不曉兵(つはもののみちをしらず),對舉白旗,空爾(ただ)獨進。新羅闘將曰:「將軍河邊臣今欲降矣。」乃進軍逆戰。盡銳遄攻(とくせめ)破之。前鋒(さき)所傷甚眾(はなはだおほし)倭國造手彥(やまとのくにのみやつこてひと)自知難救,棄軍遁逃。新羅闘將(いくさのきみ)手持鉤戟(ほこ),追至城洫(きのみぞ),運戟擊之。手彥因騎駿馬(すぐれたるうま)超渡(こえわたり)城洫,僅以身免。闘將臨城洫而歎曰:「久須尼自利(くすにじり)【此新羅語(しらきのことば),未詳也。】
 於是,河邊臣遂引軍退,急營於野。於是,士卒盡相欺蔑(ことごとくなきがしろにし),莫有遵承。闘將自就營中,悉生虜(とりこにす)河邊臣瓊缶等及其隨婦(したがへるたをやめ)。于時,父子夫婦,不能相恤(あひあはれ)。闘將問河邊臣曰:「汝命與婦,孰與尤愛(もともをしき)?」答曰:「何愛一女,以取禍乎?如何不過命也。」遂許為妾。闘將遂於露地(あらはなるところ),姧其婦女。婦女後還。河邊臣欲就談之。婦人甚以慚恨(はぢうらみ),而不隨曰:「昔君輕賣妾身,今何面目(おもて)以相遇?」遂不肯言。是婦人者,坂本臣(さかもとのおみ)女,曰甘美媛(うましひめ)
 同時所虜調吉士伊企儺(つきのきしいきな),為人勇烈(たけく),終不降服(したがはず)。新羅闘將拔刀欲斬。逼而脫(はかま),追令以尻臀(しり)向日本,大號叫(おらび)【叫,(おらぶ)也。】曰:「日本(いくさのきみ),嚙我臗脽(しり)!」即號叫曰:「新羅(こにきし)(くらへ)我臗脽!」雖被苦逼(せめたしなまる),尚如前叫。由是見殺。其子舅子(をぢこ)亦抱其父而死。伊企儺辭旨(ことば)難奪,皆如此。由此特為諸將帥所痛惜(いたみをしまる)
 其妻大葉子(おほばこ)亦並見禽。愴然(いたみ)而歌曰:

 或有(こたへ)曰:

 八月,天皇遣大將軍大伴連狹手彥(おほとものむらじさでひこ),領兵數萬,伐于高麗。
 狹手彥乃用百濟計,打破高麗。其王踰(かき)而逃,狹手彥遂乘勝以入宮,盡得珍寶貨賂(たからもの)七織帳(ななへのおりもののとばり)鐵屋(くろがねのいへ)還來。舊本(ふるふみ)云,鐵屋在高麗西高樓(たかどの)上。織帳張於高麗王內寢(おほとの)。】以七織帳,奉獻於天皇。以(よろひ)二領、金飾刀(こがねづくりのたち)二口、銅縷鍾(あかがねのゑりたるかね)三口、五色幡(いついろのはた)二竿、美女媛(をみなひめ)【媛,名也。】并其從女吾田子(まかだちあたこ),送於蘇我稻目宿禰大臣。於是大臣遂納二女以為妻,居輕曲殿(かるのまがりどの)【鐵屋在長安寺(ちやうあんじ)。是寺不知在何國。一本云:「十一年,大伴狹手彥連共百濟國,驅卻(おひしりぞく)高麗王陽香(やうかう)比津留都(ひしるつ)。」】
 冬十一月,新羅遣使獻,并貢調賦。使人悉知國家(みかど)憤新羅滅任那,不敢請罷。恐致刑戮(つみ),不歸本土。例同百姓。今攝津國三嶋郡埴廬(つのくにのみしまのこほりのはにろ)新羅人之先祖也。
 二十六年,夏五月,高麗人頭霧唎耶陛(つぶりやへ)等,投化於筑紫。置山背國。今畝原(うねはら)奈羅(なら)山村(やまむら)高麗人之先祖也。
 二十八年郡國(くにぐに)大水(いひにうゑ)。或人相食(あひくらふ)(はこび)傍郡(たなつもの)以相救。


哆唎 秋風嶺


居曾山 居昌


前賢故實 調伊企儺

大葉子悲歌:「海西蕃韓國 佇立韓城居其上 調妻大葉子 揮振領巾思故土 面向日本馳思慕或人和歌:「海西蕃韓國 佇立韓城居其上 吾見大葉子 揮振領巾思故土 面向難波馳思慕


流鏑馬神事
是為葵祭前儀。傳葵祭始自欽明朝飢荒。時令人戴豬頭扮豬神人,騎馬遊獵慰藉其靈。


脇本遺跡
柴籬宮所在未詳,疑脇本遺跡。


逢坂山關址 狹狹波山


相樂郡
高葳館、相樂館,所在不詳,蓋京都相樂郡木津町一帶也。
十五、高麗使人漂至越濱

 三十年,春正月辛卯朔(),詔曰:「量置(はかりおく)田部,其來尚矣(ひさし)年甫(としはじめて)十餘,脫(ふみた)(えつき)者眾。宜遣膽津(いつ)【膽津者,王辰爾之(をひ)也。】檢定白豬田部(しらゐたべ)丁籍。」
 夏四月,膽津檢閱(かむがへみ)白豬田部丁者(よほろ),依詔定籍。果成田戶。天皇(よみし)膽津定籍之(いさをし),賜(かばね)白豬使(しらゐのふびと),尋(まけたまひ)田令,為瑞子之(そひつかさ)【瑞子見上。】
 三十一年,春三月甲申朔(),蘇我大臣稻目宿禰薨。
 夏四月甲申朔乙酉(),幸泊瀨柴籬宮(はつせのしばかきのみや)
 越人江渟臣裙代(こしのひとえぬのおみもしろ)詣京奏曰:「高麗使人,辛苦(たしなみ)風浪,迷失浦津(とまり)。任水漂流(ただよひ),忽到著岸。郡司(こほりのつかさ)隱匿。故,臣顯奏。」詔曰:「朕承帝業,若干年。高麗迷路,始到越岸。雖苦漂溺,尚全性命(いのち)。豈非徽猷廣被(よきのりひろくかがふらしめ)至德巍巍(いたれるいきほひさかりにおほき)仁化傍通(うつくしびのみちあまねくかよはせ)洪恩蕩蕩(おほきなるめぐみひろくとほき)者哉?有司宜於山城國相樂郡(やましろのくにのさがらかのこほり)(むろつみ)淨治(きよめはらひ)相資養(あひたすけやしなへ)。」
 是月乘輿(すめらみこと)至自泊瀨柴籬宮。遣東漢氏直糠兒(やまとのあやのうぢのあたひぬかご)葛城直難波(かづらきのあたひなには),迎召高麗使人。
 五月,遣膳臣傾子(かたぶこ)於越,(あへ)高麗使。【傾子,此云かたぶこ(舸拕部古)。】
 大使(つばひらか)知膳臣是皇華使(みかどのつかひ),乃謂道君(みちのきみ)曰:「汝非天皇。果如我疑。汝既伏拜膳臣,倍復(ますます)足知百姓。(しかる)前詐余,取調(みつき)(おのがみ)。宜速還之,莫煩飾語(かざりいふ)。」膳臣聞之,使人探索其調,具為與之(かへさしめ),還京復命(かへりことまをす)
 秋七月壬子朔(),高麗使到于近江(あふみ)
 是月,遣許勢臣(さる)吉士赤鳩(きしのあかはと),發自難波津(なにはのつ)控引(ひきこし)船於狹狹波山(ささなみやま),而裝飾船(かざりぶね),乃徃迎於近江北山。遂引入山背高楲館(こまひのむろつみ),則遣東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうへのあたひこまろ)錦部首大石(にしごりべのおびとおほいし),以為守護(まもりびと)。更饗高麗使者於相樂館。
 三十二年,春三月戊申朔壬子(),遣坂田耳子郎君(さかたのみみこのいらつきみ),使於新羅,問任那滅由(ほろびしゆゑ)
 是月,高麗獻物(みつきもの)并表,未得呈奏(あげまをす)。經歷數旬(あまたのひ)占待(うらへまつ)良日。

十六、欽明帝崩御

 夏四月戊寅朔壬辰(十五),天皇寢疾不豫(おほみやまひしたまふ)
 皇太子向外不在(はべりまさず)驛馬(はゆま)召到,引入臥內(おほとの)。執其手詔曰:「朕疾甚(やまひおもし)。以後事(のちのこと)屬汝。汝須打新羅,封建(よさしたつ)任那。更造夫婦(いもせ),惟如舊日(もとのひ),死無恨之。」
 是月,天皇遂崩于內寢(おほとの)。時年若干。
 五月(もがり)河內古市(かふちのふるいち)
 秋八月丙子朔(),新羅遣弔使(とぶらひのつかひ)未叱子失消等,奉哀(みねたてまつる)於殯。
 是月未叱子失消(みしししせう)等罷。
 九月,葬于檜隈坂合陵(ひのくまのさかひのみさざき)

日本書紀卷十九 終


古市古墳群


欽明天皇 檜隈坂合陵

【久遠の絆】 【卷十八】 【卷二十】 【再臨詔】