日本書紀 卷十四 雄略紀

大泊瀨幼武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと) 雄略天皇(いうりゃくてんわう)



野中古墳
傳八釣白彥皇子墓。『古事記』安康記:「引率白日子王【八釣白彥皇子】到小治田堀穴而隨立埋者。」

圓大臣妻傷懷夫歌:「臣子吾夫矣 其著栲織重且重 七重裝束畢 今者出立於庭間 手撫腳帶整結足


葛城氏居館跡


市邊東古墳 市邊押磐皇子墓
一、眉輪王弒君復讎

 大泊瀨幼武天皇(おほはつせわかたけるのすめらみこと)雄朝津間稚子宿禰(をあさつまわくごのすくね)天皇第五子也。
 天皇產而神光(あやしきひかり)滿殿,長而伉健(たくましきこと)過人。
 三年,八月穴穗(あなほ)天皇意將沐浴(ゆあみ),幸于山宮。遂登樓兮遊目(みあそび),因命酒兮肆宴(とよのあかりきこしめす)。爾乃情盤樂極(みこころたのしびきはまり),間以言談(みものがたり),顧謂皇后(中蒂姬)曰:「吾妹(わぎも)【稱妻為妹,蓋古之俗(いにしへのひとこと)乎。】汝雖親昵(むつまし),朕畏眉輪王(まよわのおほきみ)。」去來穗別(いざほわけ)天皇女曰中蒂姬皇女(なかしひめのひめみこ),更名長田大娘(ながたのおほいらつめ)皇女也。大鷦鷯(おほさざき)天皇子大草香皇子(おほくさかのみこ),娶長田皇女,生眉輪王也。於後穗穴(安康)天皇用根臣(ねのおみ)讒,殺大草香皇子,而立中蒂姬皇女為皇后。語在穴穗(安康)天皇(みまき)。】眉輪王幼年(としわかく)遊戲(あそびたはぶれ)樓下,悉聞所談(みものがたり)。既而穗穴(安康)天皇枕皇后膝,晝醉眠臥(みねぶり)。於是眉輪王伺其熟睡(うまい),而刺弒之(さししせまつる)
 是日大舍人(おほとねり)【闕姓字(かばねな)也。】(はしり)言於天皇(雄略)曰:「穴穗(安康)天皇為眉輪王見弒!」天皇大驚,即(うたがひ)兄等,被甲帶刀,率兵自將,逼問八釣白彥皇子(やつりのしろひこのみこ)。皇子見其欲害,嘿坐不語(もだしてものたまはず)。天皇乃拔刀而斬。更逼問坂合黑彥皇子(さかひのくろひこのみこ)。皇子亦知將害,嘿坐不語。天皇忿怒彌盛(みいかりいやさかり),乃復并為欲殺眉輪王,案劾(かむがへとひ)所由。眉輪王曰:「臣元不求天位(みくらゐ),唯報父仇(かぞのあだ)而已。」坂合黑彥皇子深恐所疑,竊語眉輪王,遂共得間,而出逃入圓大臣(つぶらのおほおみ)宅。
 天皇使使乞之。大臣以使報曰:「蓋聞,人臣(きみのやつこ)有事,逃入王室(きみのみや)。未見,君王(きみ)隱匿臣舍(やつこがや)。方今坂合黑彥皇子與眉輪王,深(たのみ)臣心,來臣之舍。誰忍送歟?」由是天皇復益興兵,圍大臣宅。大臣出立於庭,(もとむ)腳帶。時大臣妻持來腳帶(あゆひ)愴矣,傷懷(いたみ)而歌曰:

 大臣裝束(よそほひ)已畢,進軍門(いくさのかど)跪拜曰:「臣雖被戮,莫敢聽命。古人有云:『匹夫(いやしきひと)之志難可奪。』方(あたれり)乎臣。伏願,大王奉獻臣女韓媛(からひめ)葛城(かづらき)宅七區,請以贖罪。」天皇不許,縱火燔宅。
 於是,大臣與黑彥皇子、眉輪王,俱被燔死。時坂合部連贄宿禰(さかひべのむらじにへのすくね)抱皇子屍而見燔死,其舍人等,(もら)名字也。】收取所燒,遂難擇骨,盛之一(ひつき),合葬新漢𣝅(いまきのあやのつきもと)南丘。𣝅字未詳,蓋是(つき)乎。】
 冬十月癸未朔(),天皇恨穴穗(安康)天皇曾欲以市邊押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)傳國而遙付囑(ゆだねむ)後事,乃使人於市邊押磐皇子,(いつはり)校獵(かり),勸遊郊野曰:「近江狹狹城山君韓帒(ささきやまのきみからふくろ)言:『今於近江來田綿蚊屋野(あふみのくたわたのかやの)()鹿()多有。其戴角(いただけるつの)枯樹(かれき)末,其聚腳(つどへるあし)弱木(しもと)林,呼吸氣息(いぶくいき)似於朝霧。』願與皇子,孟冬作陰(かむなづきすずしい)之月,寒風肅然(かすかなる)之晨,將逍遙於郊野,聊娛情以騁射(はせいむ)。」市邊押磐皇子乃隨馳獵(はせかり)
 於是,大泊瀨(雄略)天皇彎弓驟馬(ゆみをひきまかなひうまをはせ),而陽呼曰:「豬有!」即射殺市邊押磐皇子。皇子帳內佐伯部賣輪(とねりさへきべのうるわ)【更名仲子(なかちこ)。】抱屍,駭惋(おどろきなげき)不解所由(せむすべ)反側(こいまろび)呼號,往還頭腳。天皇尚誅之。
 是月御馬皇子(みまのみこ)以曾善三輪君身狹(みわのきみむさ)故,思欲遣慮而往,不意(おもひのほか)道逢邀軍(さききるいくさ),於三輪磐井(みわのいはゐ)逆戰(むかへたたかふ)。不久被捉,臨(つみ)指井而(とごひ)曰:「此水者,百姓(おほみたから)唯得飲焉,王者(きみたるひと)獨不能飲矣!」

二、天皇即位與諸妃

 十一月壬子朔甲子(十三),天皇命有司(つかさ),設(たかみくら)泊瀨朝倉(はつせのあさくら),即天皇位。遂定宮焉。以平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)為大臣,以大伴連室屋(おほとものむらじむろや)物部連目(もののべのむらじめ)大連(おほむらじ)
 元年,春三月庚戌朔壬子(),立草香幡梭姬皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)為皇后。【更名橘姬(たちばなひめ)。】
 是月,立三妃(みたりのみめ)
 (はじめ)妃,葛城圓大臣女,曰韓媛。
  生,白髮武廣國押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)稚足姬皇女(わかたらしひめのひめみこ)【更名栲幡姬(たくはたひめ)皇女。】是皇女侍伊勢大神祠(いせのおほみかみのやしろ)
 次有,吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)稚媛(わかひめ)【一本云,吉備漥屋臣(きびのくぼやのおみ)女。】生二男。
  長曰,磐城皇子(いはきのみこ)
  少曰,星川稚宮皇子(ほしかはのわかみやのみこ)【見下文(しものくだり)。】
 次有,春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)女,曰童女君(わらはきみ)
  生,春日大娘皇女(かすがのおほいらつめのひめみこ)【更名高橋皇女(たかはしのひめみこ)。】童女君者本是采女(うねめ)。天皇與一夜而(はらみ),遂生女子。天皇疑,不養。及女子行步(ありき),天皇御大殿(おほとの)物部目(もののべのめ)大連侍焉。女子過庭。目大連顧謂群臣(まへつきみたち)曰:「麗哉(うるはしきかも),女子。古人有云:『娜毘滕耶皤麼珥(なひとやはばに)【此古語,未詳。なひと(汝人)はばに(母似),或汝人者似母乎。(おもふる)清庭(きよきには)者,言誰女子?」天皇曰:「何故問耶?」目大連對曰:「臣觀女子行步,容儀(すがた)能似天皇。」天皇曰:「見此者咸言,如卿所(いふ)。然朕與一宵而脹,產女殊常。由是生疑。」大連曰:「然則一宵喚幾迴(いくたび)乎?」天皇曰:「七迴喚之。」大連曰:「此娘子以清身意(きよきみとこころ),奉與一宵。(いづく)輙生疑,嫌他有潔。臣聞:『易產腹(はらみ)者以(はかま)觸體,即便懷脹(はらむ)。』況與終宵(よもすがら)(みだり)生疑也?」天皇命大連,以女子為皇女,以母為妃。是年也,太歲丁酉
 二年,秋七月百濟池津媛(くだらのいけつひめ)違天皇將幸,(たはけぬ)石河楯(いしかはのたて)舊本(ふるふみ)云,石河股合首(いしかはのまたあひのおびと)(たて)。】天皇大怒,詔大伴室屋(おほとものむろや)大連,使來目部(くめべ),張夫婦四支(てあし)於木,置假庪(さずき)上,以火燒死。


白山比咩神社【白山神社】
傳雄略帝泊瀨朝倉宮跡。另有天之森、十二神社等說。


白山神社 萬葉集發耀讚揚碑
萬葉集』始於泊瀨朝倉宮御宇天皇代【雄略】天皇御製歌。萬葉集發耀讚揚碑、歌碑在白山神社。

※徐步,『爾雅』釋訓云:「其虛其徐,威儀容止也。」郭注:「雍容都雅之貌。」
※易產腹者以褌觸體即便懷脹,『列子』天瑞篇云:「思士不妻而感,思女不夫而孕。」
※百濟池津媛,蓋『應神紀』卅九年條百濟直支王妹新齊都媛歟。


吉野宮復原模型


埴輪、馬飼
雄略帝欲置宍人部,故探問群臣。莫能對。帝遂大怒,斬大津馬飼。
三、吉野行幸,貢宍人部

 冬十月辛未朔癸酉(),幸于吉野宮(よしののみや)
 丙子(),幸御馬瀨(みませ),命虞人(やまのつかさ)縱獵。凌重巘(かさなるみね),赴長莽(ひろきはら),未及移影(ひもかたぶく)(ころす)什七八。每獵大獲,鳥獸將盡。遂旋憩乎林泉,相羊(もとほりあそぶ)乎藪澤,息行夫(かりびと)展車馬。問群臣曰:「獵場(かりには)之樂使膳夫(かしはで)(なます),何與自(つくらむ)?」群臣忽莫能對。於是天皇大怒,拔刀斬御者大津馬飼(みうまそひおほつのうまかひ)
 是日車駕(すめらみこと)至自吉野宮。國內居民(おほみたから),咸皆振怖(ふるひおづ)。由是皇太后(忍坂大中姬)皇后(幡梭姬)聞之大懼,使倭采女日媛(ひのひめ)舉酒迎進。天皇見采女面貌端麗(かほきらぎら)形容溫雅(すがたみやびかし),乃和顏悅色(うれしび)曰:「朕豈不欲覩汝妍咲(よきゑまひ)?」乃相攜手,入於後宮(きさきのみや)。語皇太后曰:「今日遊獵,大獲禽獸(とりしし)。欲與群臣割鮮野饗(のあへ),歷問群臣,莫能有對。故朕嗔焉(いかりつ)。」皇太后知斯詔情,奉慰天皇曰:「群臣不悟陛下因遊獵場,置宍人部(ししひとべ),降問群臣。群臣嘿然(ことわり),且難對。今貢未晚。以我為初,膳臣長野(かしはでのおみながの),能做宍膾(なます)。願以此貢。」天皇跪禮(ゐやまひ)而受曰:「善哉,鄙人(いやしきひと)所云:『(たふとぶ)相知心。』此之謂也。」皇太后視天皇悅,歡喜盈懷,更欲貢人曰:「我之廚人菟田御戶部(くりやひとうだのみとべ)真鋒田高天(まさきたのたかま),以此二人,請加供為宍人部。」自茲以後,大倭國造吾子籠宿禰(おほやまとくにのみやつこあごこのすくね),貢狹穗子鳥別(さほのことりわけ)為宍人部。(おみ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)國造(くにのみやつこ),又隨續(たてまつる)
 是月,置史戶(ふみひとべ)河上舍人部(かはかみのとねりべ)。天皇以心為(さかし),誤殺人眾。天下誹謗(そしり)言:「大惡天皇(はなはだあしくましますすめらみこと)也!」唯所愛寵,史部身狹村主青(ふみひとべのむさのすぐりあを)檜隈民使博德(ひのくまたみのつかひはかとこ)等。

四、栲幡皇女自經

 三年,夏四月阿閉臣國見(あへのおみくにみ)【更名磯特牛(しことひ)。】栲幡皇女(たくはたのひめみこ)湯人廬城部連武彥(ゆゑのいほきべのむらじたけひと)曰:「武彥汙皇女而使妊身(はらむ)【湯人,此云ゆゑ(臾衞)。】」武彥之父枳莒喻(きこゆ),聞此流言(つてこと),恐禍及身,誘率武彥於廬城河(いほきのかは),偽使鸕鶿沒水捕魚(うかはたつまね),因其不意(おもはぬ)而打殺之。
 天皇聞,遣使者,案問皇女。皇女對言:「妾不識也。」俄而皇女齎持神鏡(みかがみ),詣於五十鈴河(いすずのかは)上,伺人不行,埋鏡經死(わなきしぬ)。天皇疑皇女不在,恒使闇夜東西(とさまかくさま)求覓。乃於河上(ぬじ)見如(をろち),四五(つゑ)者。掘虹起處,而獲神鏡,疑行未遠,得皇女屍。割而觀之,腹中有物如水,水中有石。枳莒喻,由斯得(きよむ)子罪。還悔殺子,(たむかひ)殺國見。逃匿石上神宮(いそのかみのかむみや)


栲幡皇女
皇女為國見所謗,遂持神鏡,經死五十鈴川上。時有虹出如蛇。後割其屍而知皇女清白完璧。


葛城一言主神社
五、葛城山遇一事主神

 四年,春二月,天皇射獵(かり)葛城山(かづらきやま)。忽見長人(たけたかきひと),來望丹谷(たにかひ)面貌容儀(かほすがた)相似天皇。
 天皇知是神,猶故問曰:「何處公(いづくのきみ)也?」長人對曰:「現人之神(あらひとがみ)。先稱王(みな),然後應噵。」天皇答曰:「朕是幼武尊(わかたけるのみこと)也。」長人次稱曰:「僕是一事主神(ひとことぬしのかみ)也。」遂與(たのしび)遊田(かり),駈逐一鹿,相辭(あひゆずり)發箭,並(うまのくち)馳騁。言詞恭恪(ゐやゐやしくつつしみ),有若逢(ひじり)
 於是日晚(ひくれ)(かり)罷。神侍送天皇,至來目水(くめのかは)。是時百姓咸言:「有德天皇(とくましますすめらみこと)也!」

六、吉野蜻蛉

 秋八月,辛卯朔戊申(十八),行幸吉野宮。
 庚戌(廿),幸于河上小野(かはかみのをの)
 命虞人駈獸,欲躬射(みづからいむ)而待,(あむ)疾飛來,(くふ)天皇(みただむき)。於是,蜻蛉(あきづ)忽然飛來,(くひ)虻將去。天皇嘉(その)有心,詔群臣曰:「為朕讚蜻蛉歌賦之(うたよみせよ)。」群臣莫能敢賦者。天皇乃口號(くちうた)曰:

 因讚蜻蛉,名此地為蜻蛉野(あきづの)


蜻蛉野 蜻蛉之瀧
雄略帝讚蜻蛉歌:「秀真大倭國 鳴武羅岳峰之上 豬鹿雌伏矣 誰人孰者將此事 告諸大前奏上乎 大君聞此事 聞此狩場豬鹿伏 立於玉纏兮 珠飾胡床坐其上 立於倭文纏 錦繡胡床坐其上 靜待豬與鹿 我今屏息坐此者 靜待豬山獸 我今屏息坐此者 吾人手腓上 虻蝱搔付噆吾臂 其噆吾臂虻 蜻蛉速來囓將去 觀夫昆蟲者 其亦有心從大君 欲嘉厥忠置汝形 命此倭國蜻蛉島 【一本以「大前」易「大君」。一本以「立於」易「御坐」。一本以「昆蟲」以下,易「如斯忠誠事 欲負汝名留後世 今命虛空見 秀真日本大倭國 謂之秋津蜻蛉島」。】


葛城山

舍人臨刑作歌:「八隅掩治兮 光宅天下我大君 遊田射獵兮 我畏嗔豬暴呻聲 懦弱逃竄緣樹上 現丘之上榛枝矣 榛木之枝者 吾兄汝命矣
七、校獵葛城山

 五年,春二月,天皇校獵于葛城山。靈鳥(あやしきとり)忽來,其大如(すずめ),尾長曳地,而且鳴曰:「努力(ゆめ)!努力!」俄而見逐嗔豬(いかりゐ),從草中暴出逐人。獦徒(かりひと)緣樹大懼。天皇詔舍人曰:「猛獸(たけきしし)逢人則止。宜逆射(まちい)而且刺。」舍人性懦弱(ひととなりをぢなく),緣樹失色,五情無主(こころおそげ)。嗔豬直來,欲噬天皇。天皇用弓刺止,舉腳踏殺。於是田罷(かりやみ),欲斬舍人。舍人臨(ころさるる),而作歌曰:

 皇后聞悲,興感止之。詔曰:「皇后不與天皇而顧舍人。」對曰:「國人(くにひと)皆謂陛下(きみ):『安野(かり)而好獸。』無乃(むしろ)不可乎?今陛下以嗔豬故,而斬舍人。陛下譬無異於豺狼(おほかみ)也!」天皇乃與皇后上車歸。呼:「萬歲(よろづとせ)!」曰:「樂哉!人皆獵禽獸,朕獵得善言(よきこと)而歸!」

八、百濟軍君來朝、武寧王生誕

 夏四月,百濟加須利君(かすりのきし)【蓋鹵王也。】飛聞つたへきき()池津媛之所幡殺(やきころされ)【適稽女郎也。】籌議(はかり)曰:「昔貢女人為采女。而既無禮,失我國名。自今以後,不合貢女。」乃告其弟軍君(こにきし)崑支(こにき)也。】曰:「汝宜往日本以事天皇。」軍君對曰:「上君(きみ)命不可奉違。願賜君婦(きみのみめ)而後奉遣。」加須利君則以孕婦(はらめるめ),既嫁與軍君曰:「我之孕婦既當產月(うみつき)。若於路產,冀載一船,隨至何處速令送國。」遂與辭訣(わかれ),奉遣於朝。
 六月丙戌朔(),孕婦果如加須利君言,於筑紫各羅嶋(つくしのかからのしま)產兒。仍名此兒曰嶋君(せまきし)。於是,軍君即以一船送嶋君於國。是為武寧王(むねいわう)。百濟人呼此嶋曰主島(にりむせま)也。
 秋七月,軍君入(みやこ)。既而有五子。

 六年,春二月壬子朔乙卯(),天皇遊乎泊瀨小野(をの)。觀山野之體勢(やまのなり)慨然(なげき)興感歌曰:

 於是名小野曰道小野(みちのをの)


各羅島百濟武寧王生誕地記念碑
亦名主島,百濟武寧王生誕地。

雄略帝感泊瀨山勢歌:「幽奧隱所兮 奈良初瀨泊瀨山 山形勢突立 宜哉峻美泊瀨嶽 山裾闊縱衡 宜哉峻美泊瀨嶽 幽奧隱所兮 奈良初瀨泊瀨山 此誠秀麗撼心弦 此誠秀麗撼心弦


野小道
亦名泊瀨道。見於萬葉集。


少子部蜾蠃 或書少子部栖輕

九、少子部蜾蠃捕三諸岳大蛇

 三月辛巳朔丁亥(),天皇欲使后妃(きさきみめ)(くはこかしめ),以勸蠶事(こかひのこと)。爰命蜾蠃(すがる)【蜾蠃,人名也。此云すがる(須我屢)。】聚國內()
 於是,蜾蠃誤聚嬰兒(わかご),奉獻天皇。天皇大咲,賜嬰兒於蜾蠃曰:「汝宜自養。」蜾蠃即養嬰兒於宮墻下(みやかきのほとり)。仍賜(かばね)少子部連(ちひさこべのむらじ)
 夏四月吳國(くれのくに)遣使貢獻。
 七年,秋七月甲戌朔丙子(),天皇詔少子部連蜾蠃曰:「朕欲見三諸岳神(みもろのをかのかみ)之形。【或云,此山之神為大物主神(おほものぬしのかみ)也。或云,菟田墨坂神(うだのすみさかのかみ)也。】膂力(ちから)過人,自行促來!」
 蜾蠃答曰:「試往捉之。」乃登三諸岳,捉取大蛇(をろち),奉示天皇。天皇不齋戒(ものいみ)。其雷虺虺(かみなりひびき)目精赫赫(まなこかかやく)。天皇畏,蔽目不見,卻入(しりぞきいり)殿中,使放於岳。仍改賜名為(いかづち)

十、吉備臣

 八月官者吉備弓削部虛空(とねりきびのゆげべのおほそら),取(いとま)歸家。
 吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)【或本云,國造吉備臣山(くにのみやつこきびのおみやま)。】留使虛空,經月不肯(ゆるし)京都(みやこ)。天皇遣身毛君大夫(むげのきみますらを)召焉。虛空被召來言:「前津屋以小女(をとめ)為天皇(みひと),以大女(おほめ)為己人,競令相闘。見幼女勝,即拔刀而殺。復以小雄雞(をのにはつとり),為天皇雞,拔毛剪翼。以大雄雞,呼為己雞,著(すず)金矩(かねのあごえ),競令闘之。見禿雞(つぶれなるにはつとり)勝,亦拔刀而殺。」天皇聞是語,遣物部兵士(いくさびと)三十人,誅殺前津屋并族七十人。


故宮博物院藏 鬥雞圖


傳吉備稚媛墓 兩宮山古墳


桃原 蘇我馬子石舞台古墳
按『推古紀』蘇我馬子葬于桃原陵。故桃原即今明日香村島庄郊。


真神原
十一、稚媛與新才伎

 是歲,吉備上道臣田狹(たさ),侍於殿側,盛稱稚媛於朋友曰:「天下麗人(かほよきひと)莫若吾婦(わがめ)(さかり)(ゆるるか)矣,諸好備矣。(あきらか)(うるほひあり)矣,種相(くさぐさのかたち)足矣。鉛花弗御(いろもつくろはず)蘭澤()無加。曠世(はるかなるよ)罕儔。當時(ただいま)獨秀者也!」天皇傾耳遙聽,而心悅焉,便欲自求稚媛為女御(みめ),拜田狹為任那國司(みまなのくにのみこともち)。俄而,天皇幸稚媛。田狹臣(たさのおみ)娶稚媛,而生兄君(えきみ)弟君(おときみ)也。別本(ことふみ)云,田狹臣婦名毛媛(けひめ)者,葛城襲津彥(かづらきのそつびこ)玉田宿禰(たまたのすくね)之女也。天皇聞體貌閑麗(すがたきらぎら),殺夫自幸焉。】田狹既之任所(よさしところ),聞天皇之幸其婦,思欲求援而入新羅(しらき)
 于時新羅不事中國(なかつくに)此謂日本作中國。天皇詔田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾(きびのあまのあたひあかを)曰:「汝宜往(うて)新羅!」於是,西漢才伎(かふちのあやのてひと)歡因知利在側,乃進而奏曰:「(たくみ)於奴者,多在韓國(からのくに),可召而使。」天皇詔群臣曰:「然則宜以歡因知利(くわんいんちり),副弟君等,取道於百濟,並下敕書(みことのりのふみ),令獻巧者(たくみのひと)。」
 於是,弟君(うけたまはり)命,率眾行,到百濟而入其國。國神(くにつかみ)化為老女(をみな),忽然逢路。弟君就訪國之遠近(とほさちかさ)。老女報言:「復行一日,而後可到。」弟君自思路遠,不伐而還。集聚百濟所貢今來才伎(いまきのてひと)大嶋(おほしま)中,託稱候風(かぜさもらふ)滯留(とどまり)數月。任那國司田狹臣乃嘉弟君不伐而還,密使人於百濟,戒弟君曰:「汝之領項(くび)有何窂錮(かたきこと)而伐人乎?傳聞:『天皇幸吾婦,遂有兒息()【兒息已見上文(かみのくだり)磐城皇子、星川稚宮皇子』今恐,禍及於身,可(あげ)足待。吾兒汝者,跨據百濟,勿使通於日本。吾者據有任那,亦勿通於日本(やまと)。」
 弟君之婦樟媛(くすひめ)國家(おほやけ)情深,君臣義切(きみやつこのことわりたしかなる)(まめなること)白日(てるひ)(またきこと)青松(とこまつ)。惡斯謀叛(みかどかたぶけむこと)(ひそかに)殺其夫,隱埋室內。乃與海部直赤尾,將百濟所獻手末才伎(たなすゑのてひと),在大嶋。天皇聞弟君不在,遣日鷹吉士堅磐(ひたかのきかたしは)固安錢(こあんぜん)【堅磐,此云かたしは(柯陀之波)。】使共復命。遂即安置於倭國吾礪廣津邑(あとひろきのつのむら),而病死者眾。【廣津,此云ひろきつ(比盧岐頭)。】由是天皇詔大伴大連室屋,命東漢直掬(やまとのあやのあたひつか),以新漢陶部高貴(いまきのあやのすゑつくりべかうくゐ)鞍部堅貴(くらつくりべけんくゐ)畫部因斯羅我(ゑかきべいんしらが)錦部定安那錦(にしごりべぢやうあんなこむ)譯語卯安那(をさばうあんな)等,遷居于上桃原(かみつももはら)下桃原(しもつももはら)真神原(まかみのはら)三所。【或本云,吉備臣弟君還自百濟,獻漢手人部(あやのてひとべ)衣縫部(きぬぬひべ)、宍人部。】

十二、援助新羅,大破高麗

 八年,春二月(つかはし)身狹村主青、檜隈民使博德,使於吳國。
 自天皇即位,至于是歲,新羅國背誕(そむきいつはり)苞苴(みつき)不入,於今八年。而大懼中國(日本)之心,脩好於高麗(こま)。由是高麗(こにきし)精兵(ときいくさ)一百人,守新羅。有頃,高麗軍士一人取假歸國。時以新羅人為典馬(うまかひ)【典馬,此云うまかひ(于麻柯比)。】而顧謂之曰:「汝國為吾國所破,非久矣。【一本云,汝國果成吾土(わがくに),非久矣。】」其典馬聞之,(いつはり)患其腹,退而在後。遂逃入國,說其所語(かたらひ)。於是,新羅王乃知高麗偽守,遣使馳告國人曰:「人殺家內所養(とり)雄者(をとり)!」國人知意,盡殺國內所有高麗人。惟有遺高麗一人,乘間得脫,逃入其國,皆具(つぶさ)為說之。
 高麗王即發軍兵,屯聚筑足流城(つくそくるのさし)【或本云,都久斯岐(つくしき)城。】遂歌儛興樂。於是,新羅王夜聞高麗軍四面歌儛,知賊盡入新羅地,乃使人於任那(こにきし)曰:「高麗王征伐我國。當此之時,若綴旒(かがれるはたあし)然,國之危殆(あやふきこと),過於累卵(かさぬるかひご),命之脩短(ながさみじかさ),大所不計。伏請救於日本府行軍元帥(やまとのみこともちのいくさのきみ)等。」
 由是任那王勸膳臣斑鳩(かしはでのおみいかるが)【斑鳩,此云いかるが(伊柯屢餓)。】吉備臣小梨(きびのおみをなし)難波吉士赤目子(なにはのきしあかめこ),徃救新羅。膳臣等未至營止。高麗諸將未與膳臣等相戰,皆怖。膳臣等乃自力(ねぎらひ)軍,令軍中,促為攻(そなへ),急進攻之。與高麗相守十餘日,乃夜鑿險為地道(したつみち),悉過輜重(にくるま),設奇兵(かくれたるつはもの)
 會明,高麗謂膳臣等為(のがれむ)也,悉軍來追。乃縱奇兵,(かちいくさ)(うまいくさ)夾攻,大破之。二國之怨,自此而生。【言二國者,高麗、新羅也。】膳臣等謂新羅曰:「汝以至弱,當至強。官軍(みいくさ)不救,必為所乘(しのがれなまし)。將成人地(ひとのところ),殆於此役。自今以後,豈背天朝(みかど)也。」
 九年,春二月甲子朔(),遣凡河內直香賜(おほしかふちのあたひかたぶ)與采女,祠胸方神(むなかたのかみ)。香賜與采女既至壇所(かむには)【香賜,此云かたぶ(舸拕夫)。】即將行事,(をかす)其采女。天皇聞之曰:「祠神祈(さきはひ),可不慎歟!」乃遣難波日鷹吉士(なにはのひたかきし),將誅之。時香賜即逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗(ゆげのむらじとよほ),普求國內(あがた),遂於三嶋郡藍原(みしまのこほりあゐのはら)執而斬焉。


古高麗冠帽
新羅王敕殺新羅人曰:「人殺家內所養雞之雄者!」古高麗冠帽仿雞羽為形。又按『舊唐書』高句麗傳、集安舞踏塚古墳壁畫,高麗人慣以雞羽飾首。高麗喚「軍」作「幢」,同新羅「雞」字音。


藍原 阿為神社
藍原同繼體帝藍野陵藍野。又胸方【胸形】神者,宗像大神是也。


前賢故實 紀小弓宿禰


新羅、任那地圖
㖨地,指㖨己吞、卓淳一帶。


田身輪邑
宇度墓/西陵古墳群一帶
十三、始伐新羅

 三月,天皇欲親伐新羅。神(いましめ)天皇曰:「無往也。」天皇由是不果行。敕紀小弓宿禰(きのをゆみのすくね)蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)大伴談連(おほとものかたりのむらじ)【談,此云かたり(箇陀利)。】小鹿火宿禰(をかひのすくね)等曰:「新羅自居西土(にしのくに)累葉(かさねるよ)稱臣,朝聘(まうでき)無違,貢職允濟(みつきまことになる)。逮乎朕之王天下,投身對馬(つしま)之外,(かくす)匝羅(さふら)(ほか),阻高麗之貢,吞百濟之(さし)。況復朝聘既闕,貢職莫脩。狼子野心(あらきこころ)飽飛(あきてはさり)飢附(うゑてはつく)。以汝四卿,拜為大將(おほきいくさのきみ)。宜以王師(みいくさ)薄伐,天罰龔行(つつしみおこなひ)。」
 於是,紀小弓宿禰使大伴室屋大連,(うれへ)陳於天皇曰:「臣雖拙弱(おぢなし),敬奉敕矣。但今臣婦命過(みまかり)之際,莫能視養(とりみ)臣者。公,冀將此事具陳天皇。」於是大伴室屋大連具為陳之(まをす)。天皇聞悲頹歎(なげき),以吉備上道采女大海(あほあま),賜於紀小弓宿禰,為隨身視養,遂推轂(あひたすけ)以遣焉。
 紀小弓宿禰等人即入新羅,行屠傍郡(かたはらのこほり)行屠(ゆくゆくほふる),並行並擊。】新羅王夜聞官軍四面鼓聲(つづみうつこゑ),知盡得㖨地(とくのところ),與數百騎馬車亂走(まとひにぐ)。是以大敗。小弓宿禰追斬敵將陣中(いくさのなか)。㖨地悉定,遺眾(のこりのともがら)不下。紀小弓宿禰亦收兵,與大伴談連等會。兵復大振(おほきにふるひ),與遺眾戰。
 是夕,大伴談連及紀岡前來目連(きのをかさきのくめのむらじ),皆力鬪(つとめたたかひ)而死。談連從人同姓津麻呂(つまろ),後入軍中,尋覓其主。從軍不見出,問曰:「吾主大伴公(おほとものきみ),何處在也?」人告之曰:「汝主等果為敵手(あたのて)所殺。」指示屍處。津麻呂聞之踏叱(ふみたけび)曰:「主既已陷,何用獨全?」因復赴敵,同時殞命(しぬ)。有頃,遺眾自退,官軍亦隨而卻。大將軍(おほきいくさのきみ)紀小弓宿禰值病(やまひす)而薨。
 夏五月紀大磐宿禰(きのおひはのすくね)聞父既薨,乃向新羅,執小鹿火宿禰所掌兵馬(つはもの)船官(ふねのつかさ)及諸小官(をづかさ)專用威命(ころたちぬ)。於是,小鹿火宿禰深怨乎大磐宿禰,乃(かざり)告於韓子宿禰曰:「大磐宿禰謂僕曰:『我當復執韓子宿禰所掌之官,不久也。』願固守之。」由是韓子宿禰與大磐宿禰有(ひま)
 於是,百濟王聞日本諸將緣小事(いささけきこと)有隙,乃使人於韓子宿禰等曰:「欲觀國堺(くにのさかひ)。請,垂降臨(いでまさね)。」是以韓子宿禰等並轡而往。及至於河,大磐宿禰飲馬於河。是時,韓子宿禰從後而射大磐宿禰鞍瓦後橋(くらほねのしりつくらほね)。大磐宿禰愕然反視,射墮(いおとす)韓子宿禰。於中流而死。是三臣由前相競,行亂於道,不及百濟王宮而卻還矣(かへりぬ)
 於是采女大海從小弓宿禰喪,到來日本(やまと)。遂憂諮於大伴室屋大連曰:「妾不知葬所。願占良地。」大連即為奏之。天皇敕大連曰:「大將軍紀小弓宿禰,龍驤(たつあがる)虎視,旁眺八維(やも),掩討逆節(そむくもの)折衝四海(ことむくよものくに)。然則身勞萬里,命墬三韓。宜致哀矜(めぐむこと),充視喪者。又汝大伴卿(おほとものまへつきみ)紀卿(きのまへつきみ)等,同國近鄰之人,由來尚矣(ひさし)。」於是,大連奉敕,使土師連小鳥(はじのむらじをとり),作冢墓(はか)田身輪邑(たむわのむら)而葬之也。由是大海欣悅,不能自默,以韓奴室(からのやつこむろ)兄麻呂(えまろ)弟麻呂(おとまろ)御倉(みくら)小倉(をくら)(はり),六口送大連。吉備上道蚊嶋田邑家人部(きびのかみつみちのかしまたのむらのやけひとら)是也。
 別小鹿火宿禰從紀小弓宿禰喪來時,獨留角國(つののくに),使倭子連(やまとごのむらじ)【連,未詳何(うぢ)人。】八咫鏡(やたのかがみ)於大伴大連,而祈請曰:「僕不堪共紀卿奉事天朝。故請,留住角國。」是以大連(おほむらじ)為奏於天皇,使留居于角國。是角臣等初居角國,而名角臣(つののおみ),自此始也。

十四、埴輪馬

 秋七月壬辰朔(),河內國言:「飛鳥戶郡(あすかべのこほり)田邊史伯孫(たなべのふひとはくそん)女者,古市郡(ふるいちのこほり)書首加龍(ふみのおびとかりよう)之妻也。伯孫聞女產兒,往賀(むこ)家,而月夜還,於蓬蔂丘(いちびこのをか)譽田陵下,【蓬蔂,此云いちびこ(伊致寐姑)。】逢騎赤駿(あかうま)者。其馬時濩略(もこよか)龍翥(たつのごとくとぶ)(たちまち)聳擢而鴻驚。異體峰生(かとくなる)殊相逸發(ことなるかたちすぐれてたつ)。伯孫就視,而心欲之。乃鞭所乘驄馬,齊頭並轡。爾乃赤駿,超攄絕於埃塵,驅騖迅於滅沒。於是驄馬後而怠足(おそく),不可復追。其乘駿者知伯孫所欲,仍停換馬,相辭取別。伯孫得駿甚歡,驟而入廄,解鞍(まぐさかひ)馬眠之。其明旦,赤駿變為土馬(はにま)。伯孫心異之,還覓譽田陵(ほむたのみさざき),乃見驄馬(まだらうま)在於土馬之間。取而代而置所換土馬。」


應神帝 惠我藻伏岡陵


土馬 埴輪馬


天鵝/白鳥
水間君犬囓死吳所貢二鵝,故獻白鳥十隻及養鳥人,以求贖罪。天皇置養鳥人於輕村、磐余村二所。


黥面 伊勢灣型人面文


前賢故實 秦酒公

秦酒公彈琴悟天皇歌:「迅疾神風兮 伊勢國中伊勢野 野上榮枝茂 五百經兮懸長青 至其榮枝枯盡迄 事君莫有怠 貞堅忠誠矣 仕奉吾君恒常久 只願我命伴君長 能得長生久事君 工匠冀望訴如此 可惜工匠令人憐

齒田根命祓罪歌:「今以戲采女 山邊小嶋子之故 得衒炫人前 雖科解除祓罪過 奉馬八匹未足惜


前賢故實 小野大樹

工匠惜豬名部真根歌:「可惜令人憐 豬名部工匠真根 巧匠所懸墨繩者 若無復其人 孰來懸兮誰來張 可惜墨繩令人憐其二:「烏玉黝且黑 甲斐 黑駒未著鞍 若為著鞍者 豬名工匠已逝歟 烏玉甲斐黑駒矣【一本云,換『豬名工匠已逝歟』而云『不及赦之命已殞』。】
十五、鳥養、豬名二部,吳使

 十年,秋九月乙酉朔戊子(),身狹村主青,將吳所獻二(おほかり),到於筑紫。是鵝為水間君(みぬまのきみ)犬所囓死。【別本云,是鵝為筑紫嶺縣主泥麻呂(みねのあがたぬしねまろ)犬所囓死。】由是水間君恐怖憂愁,不能自默。獻(おほとり)十隻與養鳥人(とりかひ),請以(あかふ)罪。天皇許焉。
 冬十月乙卯朔辛酉(),以水間君所獻養鳥人等,安置於輕村(かるのむら)磐余村(いはれのむら)二所。
 十一年,夏五月辛亥朔()近江國栗太郡(あふみのくにのくるもとのこほり)言:「白鸕鶿(しろきう)居于谷上濱(たなかみのはま)。」因詔置川瀨舍人(かはせのとねり)
 秋七月,有從百濟國逃化來(にげまゐける)者。自稱名曰貴信(くゐしん),又稱貴信吳國人也。磐余吳琴彈壃手屋形麻呂(くれのことひきさかてのやかたまろ)等,是其後也。
 冬十月鳥官(とりのつかさ)(とり)菟田(うだ)人狗所囓死。天皇(いかり)(きざみ)面而為鳥養部(とりかひべ)。於是,信濃國(しなののくに)直丁與武藏國(むさしのくに)直丁,侍宿(とのゐし)相謂曰:「嗟乎(ああ),我國積鳥之高,同於小墓(をつか)旦暮(あしたゆふへ)而食,尚有其餘。今天皇由一鳥之故,而黥人面。太無道理(ことわり)惡行之主(あしくましますきみ)也!」天皇聞而使聚積之。直丁(つかへのよほろ)等不能忽備。仍詔為鳥養部。
 十二年,夏四月丙子朔己卯(),身狹村主青與檜隈民使博德,出使于吳。
 冬十月癸酉朔壬午(),天皇命木工鬪雞御田(こだくみつけのみた)【一本云,豬名部(ゐなべ)御田,蓋誤也。】始起樓閣(たかどの)。於是御田登樓,疾走四方(よも),有若飛行。時有伊勢采女,仰觀樓上,怪彼疾行,顛仆(たふれ)於庭,覆所擎饌(ささげしみけつもの)【饌者,御膳之物(みけつもの)也。】天皇便疑御田姧其采女,自念(おもほし)將刑,而付物部。時秦酒公(はだのさけのきみ)侍坐,欲以琴聲,使悟於天皇,(よこたへ)琴彈曰:

 於是天皇悟琴聲,而(ゆるし)其罪。
 十三年,春三月狹穗彥(さほひこ)玄孫齒田根命(はたねのみこと),竊姧采女山邊小嶋子(やまのべのこしま)。天皇聞,以齒田根命,收付於物部目大連,而使責讓(ころ)。齒田根命以馬八匹、大刀(たち)八口,祓除(はらふ)罪過。既而歌曰:

 目大連聞而奏之。天皇使齒田根命,資財(たからのもの)露置於餌香市(ゑかのいち)橘本之土(たちばなのもとのつち),遂以餌香長野邑(ながののむら),賜物部目大連。
 秋八月播磨國御井隈(はりまのくにのみゐくま)文石小麻呂(あやしのをまろ),有力強心,肆行暴虐。路中抄劫(かすめ),不使通行,又斷商客艖䑧(ふね),悉以奪取,兼違國法(くにののり),不輸租賦(たちからみつき)。於是,天皇遣春日小野臣大樹(かすがのをののおみおほき),領敢死士(たけきひと)一百,並持火炬(たひ),圍宅而燒。時自火炎(ほのほ)中,白狗(しろきいぬ)暴出,逐大樹臣,其大如馬。大樹臣神色(たましひおもへりほの)不變,拔刀斬之,即化為文石小麻呂。
 秋九月,木工豬名部真根(ゐなべのまね),以石為(あて),揮斧(けづる)材。終日斲之,不誤傷刃。天皇遊詣其所,而怪問曰:「恒不誤中石耶?」真根答曰:「竟不誤矣。」乃喚集采女,使脫衣裙(きぬも)而著犢鼻(たふさぎ),露所相撲(すまひ)。於是真根暫停仰視而斲,不覺手誤傷刃。天皇因嘖讓曰:「何處奴,不畏朕,用不貞心(ただしからぬこころ),妄輙答!」仍付物部,使刑於野。爰有同伴巧者(あひたくみ),歎惜真根,而作歌曰:

 天皇聞是歌,反生悔惜(あたらしぶる)喟然頹歎(なげき)曰:「(ほとほとに)失人哉!」乃以赦使,乘於甲斐黑駒(かひのくろこま)馳,詣刑所(ころすところ)止而赦之,用解徽纏(ゆはひづな)。復作歌曰:

 十四年,春正月丙寅朔戊寅(十三),身狹村主青等共吳國使,將吳所獻手末才伎,漢織(あやはとり)吳織(くれはとり)衣縫兄媛(きぬぬひのえひめ)弟媛(おとひめ)等,泊於住吉津(すみのえのつ)
 是月,為吳客道,通磯齒津路(しはつのみち),名吳坂(くれさか)
 三月,命臣、連,迎吳使(くれのつかひびと),即安置吳人於檜隈野(ひのくまもの)。因名吳原(くれはら)。以衣縫兄媛,奉大三輪神(おほみわのかみ)。以弟媛,為漢衣縫部(あやのきぬぬひべ)也。漢織、吳織、衣縫,是飛鳥衣縫部(あすかのきぬぬひべ)伊勢衣縫(いせのきぬぬひ)之先也。

十六、根使主舊惡露見

 夏四月甲午朔(),天皇欲(あへ)吳人,歷問群臣曰:「其共食者(あひたげひと)誰好乎?」群臣僉曰:「根使主(ねのおみ)可。」天皇即命根使主,為共食者。遂於石上高拔原(たかぬきのはら)饗吳人。時密遣舍人,視察裝飾(よそひ)。舍人復命曰:「根使主所著玉縵(たまかづら)太貴最好(はなはだけやかにしていとうるはし)。又眾人云:『前迎使時,又亦著之。』」於是天皇欲自見,命臣、連,裝如饗之時,引見殿前。皇后(草香幡梭姬)仰天歔欷(なげき)啼泣傷哀(いさちかなしび)。天皇問曰:「何由泣耶?」皇后避床而對曰:「此玉縵者,昔妾兄大草香皇子奉穴穗(安康)天皇敕,進妾於陛下(きみ)時,為妾所獻之物也。故致疑於根使主,不覺涕垂(なみたたり)哀泣矣!」
 天皇聞驚大怒,深責根使主。根使主對言:「死罪死罪(うべなり),實臣之(あやまち)。」詔曰:「根使主,自今以後,子子孫孫(うみのこ)八十聯綿(やそのつつき),莫預群臣之例!」乃將斬之。根使主逃匿至於日根(ひね),造稻城(いなき)而待戰,遂為官軍見殺。
 天皇命有司,二分子孫。一分為大草香部民(おほくさかべのたみ),以封皇后。一分賜茅渟縣主(ちぬのあがたぬし),為負囊者(ふくろかつぎびと)。即求難波吉士(なにはのきし)日香香(ひかか)子孫,賜姓為大草香部吉士(おほくさかべのきし)。其日香香等語,在穴穗(安康)天皇紀。日香香,安康紀作日香蚊(ひかか)
 事平之後,小根使主(をねのおみ)【小根使主,根使主子。】夜臥謂人曰:「天皇城不堅,我父城堅。」天皇傳聞是語,使人見根使主宅。實如其言,故收殺之。根使主之後為坂本臣(さかもとのおみ),自是始焉。


石上
石上,大和國山邊郡石上鄉。然高拔原者,所在未詳。共食者,『延喜式治部云:「凡蕃客入朝者,差領客使二人、隨使一人、掌客二人、共食二人。」


日根 和泉國日根郡


桑葉
雄略帝五年,欲以勸蠶事。十六年,詔令宜桑國縣等殖桑。
十七、秦臣與漢部、土師連

 十五年秦民(はたのたみ)分散,臣、連等,各隨欲駈使(はせつかひ),勿委秦造(はたのみやつこ)。由是秦造(さけ),甚以為憂,而仕於天皇。天皇愛寵之,詔聚秦民,賜於秦酒公。公仍領率百八十種勝(ももあまりやそくさのすぐり),奉獻(ちからしろ)調絹(みつきのきぬ)(かとり)充積(みてつむ)朝廷。因賜姓曰禹豆麻佐(うづまさ)【一云,禹豆母利麻佐(うづもりまさ),皆積盈(みなみてつむ)之貌也。】
 十六年,秋七月,詔:「宜桑國縣(くにあがた)(くは)。」又散遷秦民,使獻庸、調。
 冬十月,詔:「聚漢部(あやべ),定其伴造者(とものみやつこびと),賜(かばね)(あたひ)【一本云,賜,漢使主(あやのおみ)等賜姓曰直。】
 十七年,春三月丁丑朔戊寅(),詔土師連等,使進應盛朝夕御膳清器(きよきうつは)者。於是,土師連祖吳笥(あけ),仍進攝津()來狹狹村(くささのむら)山背(やましろ)內村(うちのむら)俯見村(ふしみのむら),伊勢國藤形村(ふぢかたのむら)丹波(たには)但馬(たぢま)因幡(いなば)私民部(わたくしのかきべ)。名曰贄土師部(にへのはじべ)

十八、物部目連誅討朝日郎

 十八年,秋八月己亥朔戊申(),遣物部菟代宿禰(もののべのうしろのすくね)物部目連(もののべのめのむらじ),以伐伊勢朝日郎(あさけをとこ)
 朝日郎聞官軍至,即逆戰於伊賀青墓(あをはか)。自矜能射,謂官軍曰:「朝日郎手,誰人可中也?」其所發箭,穿二重甲(ふたへのよろひ)。官軍皆懼。菟代宿禰不敢進擊,相持二日一夜。於是,物部目連自執大刀,使筑紫聞物部大斧手(きくのもののべのおほをのて),執(たて)叱於軍中,俱進。朝日郎乃遙見,而射穿大斧手楯、二重甲,并入身(しし)一寸。大斧手以楯(さしかくす)物部目連,目連即獲朝日郎,斬之(きりつ)
 由是菟代宿禰羞愧(はぢ)不克,七日不復命。天皇問侍臣曰:「菟代宿禰何不復命?」爰有讚岐田蟲別(さぬきのたむしのわけ),進而奏曰:「菟代宿禰怯也(おぢなし)。二日一夜之間,不能擒執朝日郎,而物部目連率筑紫聞物部大斧手,獲斬朝日郎矣。」天皇聞之怒,(すなはち)奪菟代宿禰所有豬名部,賜物部目連。
 十九年,春三月丙寅朔戊寅(十三),詔置穴穗部(あなほべ)


前賢故實 物部目


久麻那利
古朝鮮語,熊川、熊津。


前賢故實 水江浦嶋子
十九、高麗覆滅百濟

 二十年,冬,高麗王大發軍兵,伐盡百濟。爰有少許遺眾,聚居倉下(へすおと)。兵糧既盡,憂泣玆深。
 於是高麗諸將言於王曰:「百濟心許(こころばへ)非常,臣每見之,不覺自失。恐更蔓生(うまはり),請遂除之!」王曰:「不可矣。寡人聞,百濟國者,日本國(やまとのくに)官家(みやけ),所由來(ありくること)遠久矣。又王入仕天皇,四鄰(よも)之所共識也。」遂止之。

 二十一年,春三月,天皇聞百濟為高麗所破,以久麻那利(こむなり)汶洲王(もんすわう),救興其國。時人皆云:「百濟國,雖(やから)既亡,聚憂倉下,實賴天皇,更造其國!」【汶洲王,蓋鹵王母弟也。日本舊記(にほんくき)云:「以久麻那利,賜末多王(またわう)。」蓋是誤也。久麻那利者,任那國下哆呼利縣(あるしたこりのこほり)別邑(わかれのむら)也。】
 二十二年,春正月己酉朔(),以白髮皇子(しらかのみこ)為皇太子。
 秋七月,丹波國餘社郡管川(よざのこほりつつかは)水江浦嶋子(みづのえのうらしまこ),乘舟而釣,遂得大龜(おほかめ),便化為女。於是浦嶋子(めで)以為婦,相逐入海,到蓬萊山(とこよのくに),歷覩仙眾(ひじりたち)。語在別卷(ことまき)
丹後國風土記逸文
 二十三年,夏四月,百濟文斤王(もんこんわう)薨。
 天皇以昆支王(こんきわう)五子中,第二末多王幼年聰明,敕喚內裏(おほうち),親撫頭面,誡敕慇懃(いましむるみことのりねもころ),使王其國。仍賜兵器,并遣筑紫國軍士五百人,衛送於國。是為東城王(とうせいわう)
 是歲,百濟調賦,益於常例(つねのあと)。筑紫安致臣(あちのおみ)馬飼臣(うまかひのおみ)等,率船師(ふないくさ)以擊高麗。

二十、天皇遺詔

 秋七月辛丑朔(),天皇寢疾不預(みやまひす)。詔:「賞罰支度(まつりごとおきて),事無巨細(おほきなるちひさき),並付皇太子。」
 八月庚午朔丙子(),天皇疾彌甚(いよいよおもし)。與百寮辭訣(わかれる),握手歔欷,崩于大殿。
 遺詔(のちのみことのり)於大伴室屋大連與東漢掬直(やまとのあやのつかのあたひ)曰:「方今區宇(あめのした)一家,煙火萬里。百姓乂安(をさまりやすく)四夷(よものひな)賓服(まうきしたがふ)。此又天意,欲寧區夏(くにのうち)。所以小心勵己,日慎一日,蓋為百姓故也。臣、連、伴造,每日朝參(みかどまゐり)國司(くにのつかさ)郡司(こほりのつかさ)隨時(ときにしたがひ)朝集。何不罄竭心府(こころぎも),誡敕慇懃?(ことわり)乃君臣,(こころ)兼父子。(ねがはく)藉臣、連智力(さとりちから),內外歡心,欲令普天下之永保安樂(やすらかにたのしきこと)。不謂,遘疾彌留(やまひあつしれる),至於大漸(とこつくに)。此乃人生常分(ひとのよのつねのことわり),何足言及。但朝野衣冠(みそつものかうぶり),未得鮮麗(あざやか)教化(おもぶくること)政刑(まつりごとのり),猶未盡善。興言念此,唯以留恨。今,年踰若干(そこら),不復稱(いのちみじかし)筋力(すぢちから)精神(こころたましひ),一時勞竭(つかれつきぬ)。如此之事,本非為身。止欲安養百姓,所以致此。人生子孫,誰不屬念?既為天下,事須割情(こころをわかつ)。今,星川王(ほしかはのみこ)心懷悖惡(さかしまにあしきこと),行闕友于(このかみおとひと)。古人有言:『知臣莫若君,知子莫若父。』縱使星川得志共治家國,必當戮辱(はぢ)遍於臣、連,酷毒(からきこと)流於民庶(おほみたから)。夫惡子孫已為百姓所憚,好子孫足堪負荷大業(おほきなるつぎ)。此雖朕家事,理不容隱。大連等,民部(かきべ)廣大,充盈於國。皇太子(しな)上嗣(まうけのきみ)仁孝(ひとをめぐみおやにしたがふみち)著聞。以其行業(しわざ),堪成朕志。以此共治天下,朕雖瞑目(しぬ),何所復恨?【一本云,星川王腹惡心麤,天下著聞。不幸朕崩之後,當害皇太子。汝等民部甚多,努力相助(つとめあひたすけ),勿令侮慢(あなづりせしめ)。】
 是時,征新羅將軍吉備臣尾代(きびのおみをしろ),行至吉備國過家。後所率五百蝦夷(えみし)等,聞天皇崩,乃相謂之曰:「領制(すべをさめ)吾國天皇既崩。時不可失也。」乃相聚結,侵寇(あたなふ)傍郡。於是,尾代從家來,會蝦夷於裟婆水門(さばのみなと)合戰。而射蝦夷等,或踊或伏,能避脫箭,終不可射。是以尾代空彈弓弦(むなしくゆづるうちし),於海濱上,射死踊伏者二隊。二櫜之箭(ふたやなぐひのや)既盡,即喚船人索箭。船人恐而自退。尾代乃立弓執(ゆはず)而歌曰:

 唱訖自斬數人,更追至丹波國浦掛水門(うらかけのみなと),盡逼殺之。【一本云,追至浦掛,遣人盡殺。】

日本書紀卷十四 終


吉備國海部古圖


裟婆水門
備後國沼隈郡佐波村郊

尾代立弓執末歌:「遠征道途會戰兮 尾代之子者 縱令天朝庭 不聞此戰之娓細 然在故鄉處 願人知其詳


浦掛水門
丹波國熊野郡浦明村

【久遠の絆】【卷十三】【卷十五】【再臨詔】