衣袖漬常陸國風土記 香島郡


天之大神社 鹿島神宮


天之大神社 鹿島神宮拜殿


坂戶社【左】、沼尾社【右】
鹿島神宮攝社,祭神天兒屋根命、經津主大神。天之大神社、坂戶社、沼尾社,惣稱鹿島天之大神。


鹿島神宮祭神 武甕槌神

一、香島略記

 香島郡(かしまのこほり)【東大海(おほうみ),南下總(しもつふさ)常陸(ひたち)(さかひ)安是湖(あぜのみなと),西流海(ながれうみ),北那賀(なか)香島(かしま)阿多可奈湖(あたかなのみなと)。】

 古老(ふるおきな)曰:難波長柄豐前大朝(なにはのながらのとよさきのおほみや)馭宇(あめのしたしろしめしし)天皇(孝德)(みよ)己酉(つちのととり)年,大乙上(だいおつのかみつしな)中臣□子(なかとみの  こ)【○脫字,或云鎌子(かまこ),蓋誤。】大乙下(だいおつのしもつしな)中臣部兔子(なかとみべのうのこ)等,請惣領(すべをさ)高向大夫(たかむこのまへつぎみ),割下總國(しもつぶさのくに)海上(うなかみ)國造(くにのみやつこ)部內(くぬち)輕野(かるの)以南一里,那賀(なか)國造部內寒田(さむた)以北五里,(ことに)神郡(かみのこほり)。其處有天之大神社(あめのおほかみのやしろ)坂戶社(さかとのやしろ)沼尾社(ぬまをのやしろ)合三處,惣稱香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)。因(なづく)郡焉。風俗說(くにぶりのことば)云,霰零(あられぶる)香島之國(かしまのくに)。】

 清濁(すめるとにごれると)得糺(あざはり)天地草昧(あめつちのはじめ)已前(よりさき)諸祖(もろもろのみおや)天神(あまつかみたち)(くにびと)神漏美(賀味留彌)神漏岐(賀味留岐)(かみ)るみ,女神祖。(かみ)るき,男神祖。會集(つどへたまひ)八百萬神(やをよろづのかみたち)高天之原(たかまのはら)時,諸祖神告云(のりたまひ):「今我御孫命(みまのみこと)光宅(しらさむ)豐葦原水穗之國(とよあしはらのみづほのくに)。」自高天原降來(くだしきたりし)大神,名(まをす)香島天之大神。(あめ)則號日香島之宮(ひのかしまのみや)(つち)則名豐香嶋之宮(とよかしまのみや)【俗云,豐葦原水穗之國,所依(よさし)(たてまつらむ)()るに(留爾):「荒振神(あらぶるかみ)等,又,石根(いはね)木立(こだち)草の片葉(くさ乃かきは)辭語之(こととひ)(ひる)狹蠅音聲(さばへなすおとなひ)(よる)火光明國(ほのかかやくくに)。此()事向(ことむけ)平定(やはす)大御神。」()天降(あまくだり)供奉(つかへまつりたまひき)。】

 其後(そののち),至初國所知(はつくにしらしし)美麻貴天皇(みまきのすめらみこと)之世,御肇國(はつくにしらす)天皇,崇神(すうじん)帝。和謚御間城入彥五十瓊殖(みまきいりびこいにゑ)天皇。】(みてぐら)大刀(たち)十口(とふり)(ほこ)二枚(ふたひら)鐵弓(かなゆみ)(はり)鐵箭(かなや)(よろひ)許呂(ころ)四口(よつ)【○不祥,蓋武具乎。】枚鐵(ひらがね)一連(ひとつら)練鐵(ねりがね)一連,(うま)一疋(ひとつ)(くら)一具,八咫鏡(やたのかがみ)(おもて)五色絁(いついろのふときぬ)一連。【俗曰,美麻貴(崇神)天皇之世,大坂山(おほさかやま)()(いただき)()白細(しろたへ)()大御服(おほみそ)服坐(きまし)而,白桙御杖(しろほこのみつゑ)取坐(とりまし)識賜命(さとるたまへるみこと)者:「我前(わがみまへ)()治奉者(をさめまつらば)(いまし)聞看(きこしめさす)食國(をすくに)()大國(おほくに)小國(をくに),事依給(よさしたまはむ)。」()識賜(さとしたまひ)()。于時,追集(めしつどへ)八十之伴緒(やそんぼとものを)(あげ)此事而訪問(とひたまひき)。於是,大中臣神聞盛命(おほなかとみのかむききかつのみこと),答曰:「大八嶋國(おほやしまぐに),汝所知食國(しろしめさむくに)(),事向賜之香島國坐(かしまのくににいます)天津大御神(あまつおほみかみ)()舉教事(さとしまししこと)者。」天皇(すめらみこと),聞(これ),即恐驚(おそれおどろき),奉(をさめ)前件(さきのくだり)幣帛於神宮(かむつみや)也。】

二、諸郡諸事

 神戶(かむべ)六十五烟(むそあまりいつつ)(もと)()難波天皇(孝德)之世,加奉(くはへまつり)五十戶,飛鳥淨見原(天武)大朝(おほみよ),加奉九戶,(あはせ)六十七戶。庚寅(皇紀一三五零)年,編戶(へむこ)(おとし)二戶,令定(さだめしめき)六十五戶。】淡海大津(天智)朝,初遣使人(つかひ),造神之宮(かみのみや)。自爾已來(このかた)修理(つくろふ)不絕。年別(としごと)七月(ふみつき),造舟而奉納津宮(つのみや)
 古老曰:倭武天皇(日本武尊)之世,天之大神(鹿島大神),宣中臣臣狹山命(なかとみのおみさやまのみこと):「今,(やしろ)御舟者。」臣狹山命答曰:「(つつしみ)大命(おほきみこと),無敢所(いなぶる)。」天之大神(あめのおほかみ)昧爽(あさけ)(のり):「汝舟者,置於海中(わたなか)。」船主(ふなぬし)(より)見,在岡上(をかのうへ)。又宣:「汝舟者,(おきつ)於岡上也。」舟主(よりて)求,(また)在海中。如此(かくのごとき)之事,已非二三(ふたたびみたび)(ここに)懼惶(おそりかしかみ)(あらたに)令造舟三隻,(おのもおのも)二丈餘(ふたつゑあまり),初獻之(たてまつりき)

 又,年別四月(うづき)十日,(まけ)(のむ)酒。卜氏種屬(うらべうぢのやから)男女(をとこもをみなも)集會(つどひ),積日(かさね)夜,飲樂(さけのみたのしび)歌舞(うたひまふ)。其(うた)云:

 神社(かむつやしろ)周匝(めぐり),卜氏居所(すむところ)地體(くにがた)(あらはれ),東西(のぞみ)海,峰谷(をたに)犬牙(いぬのきばのごとく)邑里(むらざと)交錯(まじれり)山木(やまのき)野草(ののくさ)(かくし)內庭(うちつには)蕃籬(まがき)澗流(たにのながれ)崖泉(きしのいづみ)(わかす)朝夕之汲流(くみみづ)嶺頭(みねのほとり)(つくらば)(いへ),松竹(まもり)垣外(かきのと)谿腰(たにのこし)(ほらば)井,薜蘿(つたとひかげ)(おほふ)壁上(かきのうへ)。春經其村者,百艸(もものくさ)(ママ)花,【○脫漏,或艷、綺之疇。】秋過其(みち)者,千樹(ちぢのき)錦葉(にしきのは)可謂(いふべし)神仙幽居之境(かみのかくりすむさかひ)靈異化誕之地(くしびのあるるところ)佳麗(うるはしき)之豐,不可(ふつく)記。
 其社南,郡家(こほりのみやけ)。北沼尾池(ぬまをのいけ)。古老曰:「神世(かみよ),自天流來(ながれこし)水沼(みぬま)。」所生蓮根(はちす)氣味(かをれるあぢはひ)(いたく)(ことにし),甘(すぐれ)他所(あたりところ)之。有病者(やめるひと),食此沼蓮,早差(がやくいえ)驗之(しるしあり)(ふな)(こひ)多住。(さきに)郡所置,多(うう)(たちばな)其實(そのみ)味之(うまし)

 郡東二三里(ふたさとみさと)高松濱(たかまつのはま)。大海之流著(ながれつく)砂貝(いさごとかひ),積成高丘,松林(まつのはやし)自生。(しひ)(くぬぎ)交雜(まじり)(すでに)山野(やまの)東西(をちこち),松下出泉(いづみ)(ばかり)八九步(やあしここのあし)清渟(きよくたまり)太好(はなはだよし)
 慶雲(きやううむ)元年(皇紀一三六四)國司(くにのつかさ)婇女朝臣(うねめのあそみ)(ゐて)鍜佐備大麿(かぬちさびのおほまろ)等,採若松濱(わかまつのはま)(まかね),以造(つるぎ)之。自此以南,至輕野里(かるののさと)若松濱之間,可卅餘里,此皆松山(まつやま)伏苓(まつほど)伏神(ねあるまつほど)每年(としごと)掘之。其若松浦,即常陸(ひたち)下總(しもつふさ)二國之(さかひ)安是湖(あぜのみなと)所有(あらゆる)沙鐵(すなごのあらがね),造(つるぎ)大利(はなはだとし)。然為香島之神山(かみつやま),不得(たやすく)(きり)穿(ほる)鐵也。
 郡南廿里,濱里(はまのさと)以東(ひむがし)松山之中,有一大沼(おほぬま)。謂寒田(さむた)。可四五里。鯉、鮒住之(すめり)之萬(しま)、輕野二里所有田,少潤之(うるほふ)。輕野以東,大海濱邊(はまべ),流著大船,(ながさ)一十五丈,(ひろさ)一丈餘。朽摧(くちくだけ)(うづもり)砂,今(なほ)遺之(のこれり)【謂淡海(あふみ)之世(天智),擬遣覔國(くにまぎ),令陸奧國(みちのおくのくに)石城(いはき)船造(ふなつくり),作大船,(いたり)于此著岸,即破之(やぶれき)。】


鹿島神宮御船祭【式年大祭】
年別七月,造舟奉津宮者,蓋每十二年一度御舟祭之所起歟。


鹿嶋市大船津
津宮,建於濱邊之海神行宮。


鹿嶋神宮北面第一鳥居 神戶森
設祭灌酒歌:「新盛向榮兮 神之御酒甚甘醇 飲之飲之而 汝命勸進如此許 吾亦不覺酣為醉


大洗神磯 鹿島灘
神社周匝東西者,各指鹿島灘、北浦。鹿島灘,乃大洗岬至犬吠埼之海域。北浦,在鹿島灘反對側。


舊香島郡家跡 神野向遺跡
香島郡家跡,今在鹿島神宮郡內。然風土記所書,當為郡家遷趾之前,神野向遺跡。


寒田 神之池


童子女松原公園 童子女像
童子松原,遺跡未詳,或云舊若松村海邊。或云童子女松原,蓋誤。
僮子邂逅郎子歌:「彌著益顯兮 阿是小松末梢間 木棉垂枝頭 向吾揮振今可見 阿是小島少女矣孃子報歌:「雖與海潮言 夜將並佇歌垣者 然奈西子羞 隱身匿於八十島 君仍察吾走而來


嬥歌會 古代出雲歷史博物館


茨城縣之天鵝
白鳥里,『和名抄』鄉名作白鳥。
白鳥堤歌:「嗚呼白鳥矣 以其鵠羽築斯堤 雖然造百遍 築之壞之不得成 徒然羽越白鳥堤


角折 鹿島町角折
東海,即鹿島灘。蛇生角者,見夜刀神傳說。都,皆也,凡也。

三、童子松原

 以南(そのみなみ)童子松原(わらはのまつばら)。古,有年少(としわかき)童子。(くにびと)云,かみのをとこ(加味乃乎止古)かみのをとめ(加味乃乎止賣)○神男子、神娘子。男稱那賀寒田之郎子(なかのさむたのいらつこ),女號海上安是之孃子(うなかみのあぜのいらつめ)(ともに)形容端正(たかちきらきらし)光華(かがやけり)鄉里(むらざと)相聞(きき)名聲(),同存望念(ねがひ)自愛(つつしみ)心滅(こころきえぬ)。經月累日,嬥歌(うたがき)(つどひ)【俗云うたがき(宇太我岐)○歌垣。又云かがひ(加我毗)也。】邂逅(たまさかに)相遇(あへり)
 于時,郎子歌曰(うたひけらく)

 孃子(こたへ)歌曰:

 便(すなはち)相晤(かたらふ),恐人知之,避自遊場(うたがきのには)(かくり)松下,(たづさはり)(ちかづけ)膝,陳懷(おもひをのべ)吐憤(いきどほりをはく)。既(とき)故戀(ふるきこひ)積疹(つもれるやまひ),還起新歡(あらたなるよろこび)頻咲(しきるゑまひ)。于時,玉露(たまのつゆ)杪候(あきのくれ)金風(あきのかぜ)風節(ふくとき)皎皎(あきらけき)桂月(つき)照處(てらすところ)唳鶴(なくたづ)西洲(かへるす)颯颯(さやげる)松颸(まつかぜ)(しのふ)處,渡雁(わたるかり)東岵(ゆくやま)。夕寂寞(しづかに)巖泉舊(いはほのしみづふり),夜蕭條(さびしく)烟霜新(けぶれるしもあらた)近山(ちかきやま)自覽黃葉(もみちば)散林之色(はやしにちるいろ)遙海(はるけきうみ)唯聽蒼波(あをなみ)激磧之聲(いそにたぎつこゑ)
 茲宵(こよひ)于茲,樂莫之樂(これよりたのしきはなし)(ひとへ)(ふけり)語之甘味(ことばのあまきあぢ)(ひたふる)夜之將開(よのあけむ)。俄而雞鳴(とりなき)狗吠(いぬほえ)天曉(そらあけ)日明(ひあき)(ここに)僮子(わらは)等,不知所為(なすところ),遂(はぢ)人見,化成(なる)松樹。郎子謂奈美松(なみまつ),孃子稱古津松(こつまつ)。自古(つけ)名,至今不改(あらためず)

 郡北三十里,白鳥里(しらとりのさと)。古老曰:生目(伊久米)天皇(垂仁)之世,有白鳥。自天飛來(とびきたり),化為僮女(をとめ),夕(のぼり)(くだる)(つつみ)石造池,為其築(つつみ)(いたづら)日月(ひつき)築之(つきつ)壞之(くゑつ),不得作成。僮女等:

 斯口口唱(かくくちぐちにうたひ)升天,不(また)降來。由此,其所(なづく)白鳥鄉。【以下略之。】

 以南所有平原(はら),謂角折濱(つのをれのはま)(いへらく),古有大蛇(をろち),欲(かよはむ)東海,掘濱作穴,蛇角(へみのつの)折落(をれおちき),因名。或曰:「倭武天皇(日本武尊)停宿(やどり)此濱,奉(すすめ)御膳(みつけもの),時(ふつに)無水。即執鹿角(しかのつの),掘地之,為其角折。所以(ゆゑ)名之。」以下(いか)略之。】


衣袖漬常陸國風土記 那賀郡

一、那賀略記

 那賀郡(なかのこほり)【東大海(おほうみ),南香島(かしま)茨城(うばらき)郡,西新治(にひばり)郡、下野(しもつけぬ)(さかひ)大山,北久慈(くじ)郡。】
 最前(まへ)略之。】平津驛家(ひらつのうまや)西一二里,有(をか)。名曰大櫛(おほくし)上古(いにしへ)有人,體(きはめて)長大(たけたかく),身居丘壟之上(をかのうへ),手(くじる)海濱之蜃(うみべたのうむぎ)【○大蛤也。】所食貝(くらひしかひ)積聚(つもり)成岡。時人(ときのひと),取大朽之義(おほくちのこころ),今謂大櫛之岡(おほくしのをか)。其踐跡(ふみしあと)【長卌餘步(あしあまり)(ひろさ)廿餘步。尿穴(ゆまりのあな)(わたり)可廿餘步(ばかり)。】以下(いか)略之。】

 茨城里(うばらきのさと)(より)以北(きた)高丘(たかきをか)。名曰晡時臥之山(くれふしのやま)
 古老(ふるおきな)曰:有兄妹(あにとおと)二人。兄名努賀彥(ぬか毗古),妹名努賀姬(ぬか毗咩)。時妹在(むろ),有人,不知姓名()。常(いたり)求婚(よばひ),夜來晝去。遂成夫婦(いもせ)一夕(ひとよ)懷妊(はらめり)。至可產月(こうむべきつき)(つひに)小蛇(ちさきへみ)(あくれば)若無言(ことなきがごとく)(くるれば)與母語(ははとかたる)。於是,母(えをぢ)驚奇(おどろきあやしび),心(おもふ)神子(かみのみこ)。即(もり)淨杯(きよきつき),設(まつりどの)安置(おけり)。一夜之(ほど),已滿(みてり)杯中。更(かへり)瓫而置之,(また)滿瓫內(ひらかのうち)
 如此三四(みたびよたび)不敢(あへず)(うつは)。母告子云:「量(いまし)器宇(うつはもの),自知神子。我(やから)(いきほひ),不可養長(ひたす)。宜從父在(ちちのいませる)不合(べからず)有此者。」時子哀泣(かなしみなき)拭面(おもてをぬぐ)答云:「(つつしみ)承母(みこと),無敢所(いなぶる)(しかれども)一身(みひとつ)獨去(ひとりゆかば),無人共(たすくる)望請(ねがはく)(あはれみ)(そへ)小子(わらは)。」母云:「我家(わぎへ)所有,母與伯父。是亦(これまた),汝明所知(あきらけくしれる)。當無人可相從(したがふ)。」爰,子(ふくみ)恨而事不吐之(ものいはず)
 臨決別(わかるる)時,不勝(たへず)怒怨(いかり)震殺(ふりころし)伯父而昇天。時母驚動(おどろき),取(ひらか)投之,觸子不得昇。(よりて)留此峰。所盛瓫、(みか),今存片岡之村(かたをかのむら)。其子孫(うみのこ),立社(いたし)祭,相續(あひつづき)不絕。【以下略之(りゃくす)。】

 自郡東北,渡粟河(あはかは)而置驛家(うまや)(もと)近粟河,謂河內驛家(かふちのうまや)。今(まにまに)名之(なづく)。】當其以南,泉出坂中(さかのなか)。多流尤清(いときよく),謂之曝井(さらしゐ)。緣泉所居村落婦女(むらのをみな)夏月(なつのつき)會集(つどひ)(あらひ)(ぬの)曝乾(さらしほす)【以下略之。】


那珂 酒列磯前神社 逆列岩
粟河,今那珂川。


國指定史蹟 大串貝塚
那賀郡大櫛岡,傳巨人所食貝塚之蹟。當地有巨人像。


龍神山
晡時,申刻也。晡時臥之山,或云朝房山,或云龍神山。


朝房山西麓 大井神社

衣袖漬常陸國風土記 久慈郡


常陸太田市
按『塵袋』所收逸文,常陸國有久慈理岳,形似鯢鯨,故得名。


谷會山 棚谷
或云鶴池【輕直里麿造池】北面之山。


河內里 和名抄作河內鄉


神服織機殿神社 和妙奉織


長幡部社 長幡部神社

一、久慈略記

 久慈郡(くじのこほり)【東大海(おほうみ),南、西那珂(那賀)郡,北多珂(たか)郡、陸奧國(にちのおくのくに)堺岳(さかひなるやま)。】
 古老(ふるおきな)曰:自郡以南(みなみ),近有小丘(ちさきをか),體似鯨鯢(くぢら)倭武天皇(日本武尊),因(なづけ)久慈。【以下略之(りゃくす)。】
 至淡海大津大朝(あふみのおほつのおほみや)光宅(あめのしたしろしめしし)天皇(すめらみこと)之世(天智),遣()藤原(鎌足)內大臣(うちのおほおみ)封戶(へひと)輕直里麿(かるのあたひさとまろ),造(つつみ)(いけ)。其池以北,謂谷會山(たにあひやま)。所有岸壁(やまぎし)(かたち)磐石(いはほ),色黃穿𨺋(かきをうがてり)獼猴(さる)集來(つどひき)(つねに)宿喫噉(やどりくらへり)
 自郡西北六里,河內里(かふちのさと)(もと)古古之邑(ここのむら)俗說(くにひとのことば)猿聲(さるのこゑ)為古古。】東山石鏡(いしのかがみ)。昔在魑魅(おに)萃集(あつまり)翫見(もてあそびみ)鏡,則(おのづから)去。【俗云疾鬼(ときおに)(むかへ)自滅(おのづからほろぶ)。】所有(つち),色如青紺(あをきはなだ),用()麗之(うるはし)【俗云あをに(阿乎爾),或云かきつに(加支川爾)。】時隨朝命(おほみこと),取而進納(たてまつる)。所謂久慈河(くじがは)濫觴(みなもと)(いづ)猿聲(ここ)以下(いか)略之。【○濫觴,(みなもと)也。猿聲,地名。
 郡西□里,靜織里(しとりのさと)上古(いにしへ)之時,織綾之機(しつをおるはた)未在(あらざりき)知人(しれるひと)。于時,此村初織,因(なづく)。北有小水(をがは)丹石(あかきいし)交錯(まじれり)。色似琥碧(くはく)火鑽(ひうち)尤好。以號玉川(たまがは)
 郡北二里,山田里(やまだのさと)。多為墾田(はりた),因以名之。所有清河(きよかは),源(おこり)北山,近經郡家(こほりのみやけ)南,會久慈之河(くじのかは)(さはに)年魚(あゆ),大如(ただむき)之。其清河(ふち),謂之石門(いはと)慈樹(うつくしびのき)成林,(かみ)幕歷(おほひたなびく)淨泉(きよきいづみ)(ふち)(しも)潺湲(そそきながる)青葉(あをば)(ひるがへし)(かくす)(ひかげ)(きぬがさ)白砂(しらすな)(しく)(もてあそぶ)波之(むしろ)夏月熱日(なつのあつきひ)遠里(とほきさと)近鄉(ちかきさと),避(あつき)(すずしき)(ちかづけ)(とり)手,唱筑波之雅曲(つくはのみやびうた),飲久慈之味酒(うまさけ)。是(いへども)人間之遊(ひとのよのあそび)(ひたふる)塵中(ちりのなか)(うれひ)。其里大伴村(おほとものむら),有(きし)土色(つちのいろ)黃也。群鳥(むらどり)飛來,啄咀所食(ついはみくへり)

 郡東七里,太田鄉(おほたのさと)長幡部之社(ながはたべのやしろ)。古老曰:珠賣美萬命(すめみまのみこと)【○皇御孫命(すめみまのみこと),此云瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。】自天降時,為織御服(みけし)從而降之神(したがひてくだりたまひしかみ),名綺日女命(かむはたひめ)。本,自筑紫(つくし)日向(ひむか)二所之峰(ふたがみのみね),至三野國(みののくに)引津根之丘(ひきつねのをか)(のちに),及美麻貴(みまき)天皇(崇神)之世,長幡部遠祖(とほつかみ)多弖命(たてのみこと)(さり)三野(美濃)(うつり)于久慈,造立機殿(はたどの),初織之(おりき)。其所織(はたもの),自成衣裳(みけし),更無裁縫(たちぬふ),謂之內幡(うつはた)。或曰:「(あたり)(ふときぬ)時,(たやすく)為人見,故(とぢ)屋扇(やのとびら)闇內(やみぬち)而織。」因名烏織(うつはた)亅兵(かぎのつはもの)丙刃(こはきのやいば),不得裁斷(たちきる)。今每年(としごと)(ことに)神調(かみのみつき)獻納之(たてまつれり)

二、土蜘蛛傳說

 自此以北,薩都里(さつのさと)。古有國栖(くず),名曰土雲(つちくも)【○土蜘蛛(つちくも)。】兔上命(うながみのみこと),發(いくさ)誅滅(ころしき)。時(よく)令殺,「福哉(さちなるかも)。」所言因名さつ(佐都)。北山,所有白土(しらに),可(ぬる)畫之。
 東大山,謂賀毗禮之高峰(かびれのたかみね)。即在天神(あまつかみ),名(まをす)立速男命(たちはやを),一名速經和氣命(はやふわけのみこと)。本自天降,即坐松澤(まつざは)松樹八俣(まつのきのやまた)之上。神祟(かみのたたり)甚嚴(いといつくし)。有人,(むき)(まる)大小便(ゆばりくそ)時,令示(わざはひ)疾苦(やまひ)者。
 近側(ちかきかたはら)居人,(つね)辛苦(たしなみ)(のべ)(さま)(こひ)(みかど)。遣片岡大連(かたをかのおほむらじ)敬祭(ゐやまひまつらし)(のみ)曰:「今所坐(いませる)此處,百姓(おほみたから)近家(ちかくにいへゐし)朝夕(あしたゆふべ)穢臭(けがらはし)(ことわり)不合(すべからず)坐。宜避移(さりうつり),可(しづまり)高山之淨境(きよきさかひ)。」於是,神(きき)禱告(ねがひ),遂登賀毗禮之峰。其社,以石為(かき),中種屬(やから)甚多。(また)品寶(くさぐさのたから)(ゆみ)(ほこ)(かま)(うつはもの)(たぐひ),皆成石存之(のこれり)。凡,諸鳥經過(へすぐる)者,(ことごとく)急飛避(とくとびさけ),無當峰上(みねのうへ)。自古然為(しかし),今亦同之(またおなじ)。即有小水(をがは),名薩都河(さつがは)。源(おこり)北山,流南(いる)久慈河。【以下略之。】

 所稱高市(たけち)。自此東北二里,密筑里(みつきのさと)。村中淨泉(きよきいづみ),俗謂大井(おほゐ)。夏(すずしく)(あたかく)湧流(わきながれ)成川。夏暑之時(なつのあつきとき)遠邇(をちこち)鄉里(むらざと),酒(さかな)齎賚(もちき),男女會集,休遊(いこひあそび)飲樂(さけのみたのしめり)。其東南,(のぞむ)海濱。石決明(あはび)棘甲蠃(うに)(うを)(かひ)等類,甚多(いとさは)。】西北(おぶ)山野。(しひ)(いちひ)(かへ)(くり)生,鹿(しか)()住之。】凡山海珍味(めづらしきあぢはひ),不可悉(しるす)
 自此(ひむがしきた)卅里,助川驛家(すけかはのうまや)。昔號遇鹿(あふか)。古老曰:「倭武天皇(日本武尊),至於此時,皇后(弟橘姬)參遇(まゐりあひ)。因名矣(なとす)。」至國宰(くにのみこともち)久米大夫(くめのまへつきみ)之時,(ために)河取(さけ)(あらため)名助川。俗語(くにひとのことば),謂鮭祖(さけのおや)すけ(須介)。】


菟足神社 祭神菟上足尼命
兔上命,或云菟上足尼。


賀毗禮峰 賀毗禮神社
今御岩山,尚有御岩神社。


御岩神社 御岩山靈場圖


大井跡 泉神社境內湧泉


衣袖漬常陸國風土記 多珂郡


出雲臣祖天穗日命磐座
建御狭日命,先代舊事本紀作彌佐比命,為出雲臣同屬。


苦麻村 大熊町


飽田村 小木津町沿海


佛濱 度志觀音
觀世音菩薩像,此云石崖佛。以度志觀音聞名,有史蹟仏ヶ浜碑。


碁子 小貝濱
藻嶋驛家,多賀郡十王町西上台。

一、多珂略記

 多珂郡(たかのこほり)【東、南(ならびに)大海,西、北陸奧(みちのおく)常陸(ひたち)二國(さかひ)高山(たかきやま)。】

 古老(いへらく)斯我高穴穗宮(志賀のたかあなほ)大八洲(おほやしま)照臨(しろしめしし)天皇(成務)之世,以建御狹日命(たけみさひのみこと)(よさしき)多珂國造(くにのみやつこ)玆人(このひと)初至,歷驗(めぐりみて)地體(くにがた)以為(おもひ)峰險(みねさかし)岳崇(やまたかし),因(なづけき)多珂之國。(まをす)建御狹日命者,即是出雲臣(いづものおみ)同屬(やから)。今多珂、石城(いはき)所謂是也(これなり)風俗說(くにぶりのことば)云,薦枕多珂之國(こもまくらたかのくに)。】
 建御狹日命,當所遣(つかはさえし)時,以久慈(さかひ)助河(すけかは)道前(みちのくち)(さる)郡西北六十里,(なほ)猶稱道前里(みちのくちのさと)。】陸奧國石城郡苦麻之村(くまのむら)道後(みちのしり)。其後,至難波長柄豐前大宮(なにはのながらのとよさきのおほみや)臨軒(あめのしたしろしめしし)天皇(孝德)之世,癸丑(みづのとうし)年,多珂國造、石城直美夜部(いはきのあたひみやべ)石城評造部(いはきのこほりのみやつこべ)志許赤(しこあか)等,請申(こひまをし)惣領高向大夫(すべをさたかむこのまへつぎみ),以所部(くぬち)遠隔(とほくへだたり)往來(ゆきき)不便(たよりよからざる)(わかち)置多珂、石城二郡。【石城郡,今(あり)陸奧國(みちのおくのくに)堺內。】

 其道前里,飽田村(あきたのむら)
 古老(ふるおきな)曰:倭武天皇(日本武尊),為巡東垂(あづまのさかひ)頓宿(やどり)此野。有人,奏曰(まをし):「野上(ののうへ)群鹿(むるるしか)無數(かずなく)甚多(いとおほし)。其聳角(そびゆるつの),如蘆枯之原(かれあしいのはら)(たとふれば)吹氣(いぶき),似朝霧(あさぎり)之立。又,海有鰒魚(あはび),大如八尺(やさか)。并諸種(くさぐさ)珍味(めづらしきあぢはひ),遊理□多。」於是,天皇(すめらみこと)(いでまし)野,遣橘皇后(たちばなのおほきさき)【○弟橘姬命。○遊理□多,或云遊理甚多、遊埋甚多、遊鯉甚多、遊漁甚多。】臨海令漁(すなどらしめ)相競(きそはむ)捕獲之利(えもののさち)別探(わかれてさぐり)山海之物。
 此時,野狩(ののかり)者,終日(ひねもす)駈射(かりいたまへども),不得一宍(ひとつのしし)海漁(うみのすなどり)者,須臾(しまらく)才採(わづかにとり),盡得百味(もものあぢ)焉。獵漁(かりとすなどり)(をはり),奉(すすめ)御膳(みつけもの)時,敕陪從(おもとびと)曰:「今日之遊(けふのあそび)(われ)家后(きさき)(おのもおのも)(つき)野海,(ともに)祥福(さち)【俗語云(佐知)。】野物(いえども)不得,而海味盡飽喫(あきくらへり)者。」後代(のちのよ)追跡(あとをおひ)(なづく)飽田村。

 國宰(くにのみこともち)川原宿禰黑麿(かははらのすくねくろまろ)時,大海之(ほとり)石壁(いはぎし)雕造(えりつくりき)觀世音菩薩像(かむぜおむぼさつ)。今存矣(のこれり)。因號佛濱(ほとけのはま)【以下略之。】

 郡南卅里,藻嶋驛家(めしまのうまや)。東南濱碁子(ごいし),色如珠玉(たま)。所謂常陸國所有麗碁子(うるわしきごいし),唯是濱(のみ)。昔,倭武天皇( 日本武尊),乘舟(うかび)海,御覽(みそなはしし)島磯(しまのいそ),種種海藻(),多生茂榮(しけりさかゆ),因名。今亦然(いまもしかり)【以下略之。】

【久遠の絆】 【總 記】 【地 名】 【再臨詔】