日本巫女史 卷首


  • 一、寫真圖版

      柳田國男先生を中心にした集り
      大正十年三月卅日柳田先生の第一回渡歐を記念する為、市外西大久保の折口宅の庭前で攝影せる物。
      (前列向て右より柳田先生、ネフスキー氏、金田一京助氏。)
      (第二列の向て左より折口信夫氏、今泉忠義氏、次は著者、其次は松本信廣氏、星野輝興氏、其他。)


      在シベリヤのゴルト民族の女シャーマン。(鳥居龍藏氏原版。)


      削り花(イナウ)に包んだアイヌの憑き神。
      老狐の頭蓋骨。(金田一京助氏原版。)


      壹岐國のヤボサ。(後藤守一氏原版。)


      天鈿女命の神憑。(河鍋曉齋畫。)


      巫女とら子の描きしお華紋。(說明在本文。)


      琉球久高島の祝女(ノロ)。(折口信夫氏原版。)


      平安朝の下級巫女。(年中行事繪卷所載。)


      鎌倉初期の巫覡。(十方界所載、安產を祈禱する圖。)


      奧州の巫女(イタコ)が持つ最多角(イラタカ)の珠數。
      (鈴木久治氏所藏、著者原版。)


      最多角(イラタカ)の珠數の裝束と稱する物。(說明在本文。)


      巫娼の流れを汲める白拍子。(小川笠翁畫。)


      椿の枝を持てる八百比丘尼。(折口信夫氏原版。)


      蠱術に養はれた丑の刻參り。(揚州周延畫。)


      梓巫女の亡靈招く圖。(昔話稻妻草紙所載。)


      江戶期の高級の神樂巫女。(歌川豐國畫。)


      江戶期の下級の神樂巫女。(北齋女今川所載。)

  • 二、卷頭小言
       實を言へば、『日本巫女史』の著述は、私には荷が勝ち過ぎてゐた。私は長い間を油斷無く材料を集めて來て、もう大丈夫だらうと思うて、今春から起稿したが、さて實際に當つて見ると、あれも足らぬ、此れも足らぬと云ふ有樣で、自分ながらも、其の輕率に臍を噬む次第であつた。
       其に私の惡い癖は、研究の對象を何年でも育ててゐる事が出來ぬ點である。常に發表にのみ急がれて、其研究を練る事が出來ぬ點である。之は學者としては此上も無い缺點であつて、私は自分ながら學者の素質すら有してゐぬ者だと考へてゐる。
       併し、十年越しの宿痾である糖尿病が一進一退してゐる上に、前後二十二年間の記者生活に勞れた身の神經の衰弱は、私をして常に餘命の長く無い事を考へさせるのである。斯うした事情は今の內にウンと書いて置け、良いとか惡いとか云ふ事は別問題だ、先づ書く事が第一だと、巧遲よりも拙速を擇ばせずには措かぬのであつた。こんな慌しい氣分に追ひ懸けられながら筆を執る。資料の整理も字句の洗練も思ふに任せぬのである。
       殊に本年は氣象臺創設以來三回目と云ふ暑熱で、實に應えた。私は前前年に『賣笑三千年史』を、前年に『日本結婚史』を、本年は『日本巫女史』をと、三年續けて小著の執筆は、常に盛夏の交であつたが、本年の暑氣には遂に兜を脫がざるを得無かつた。陋屋でペンを執つてゐると、流汗雨の如くで、強情にも我慢にも書き續ける事が出來ぬのである。加之、私の學問の力に餘る難解な問題が續出する。私はすつかり悲觀して了つて、此れは筆を折つて出直すより外に致し方が無いと、觀念の眼を閉づるに至つたのである。
       然るに、其觀念の眼底に映つたのは亡妹の世に在りし時の幼い姿であつた。私が明治三十年一月七日(私が特に此日を選んだのは、父が崇拜した平田篤胤翁が此日に鄉關を辭して江戶に出た物で、昔から此日に村を出る者は、再び家に歸へらぬと云ふ俗信が有ると父から聽いてゐたので、新舊の相違こそ有れ、私も此日に村を離れた。)に、所謂、志を立てて上京する際に、一番頭を惱した問題は、當年九歲に成る季妹梅子の身の處置であつた。私は三男に生れ、他家を興したにも拘らず、父が働き殘してくれた遺產の中から、現在の金に換算すれば、約五萬圓程の分前を貰つたので、學資に事缺く憂ひは無かつたが、五歲にして父を失ひ、七歲にして母に別れた季妹は、數年間家を外に放浪生活を送つてゐて、馴染の薄い私が家に歸つたのを、子供心にも賴りとして、兄として仰がねば成らぬ氣持を察してやると、淚脆い私には可愛くも有り、且つ臨終迄、「梅が梅が。」と妹の身上を案じて死んだ母の心根を思ふと此妹だけは私が養育して、不幸を重ねた兩親への追孝を盡さ無ければ成らぬと考へざるを得無かつた。其處で私は、妹の戶籍を私の方へ移し養女とした。──私は此季妹を家に殘して上京する事に成つたのである。
       當時、私の一番上の姊婿が、私の生家の留守居をしてくれる事と成り、其に本家を相續した弟──即ち季妹の小兄も附近に居るし、大字こそ違ふが同村內に二人の兄も居るし、其他に親族や故舊も澤山有るので、相談の結果、姊婿の許に季妹を託す事として私は單身で上京した。
       季妹は夙く兩親に先立たれる程の薄倖の者であつただけに、健康も惠まれてゐず、何れかと云へば、蒲柳の質であつた。其に子供心にも兩親に別れ、更に兄である私とも離れ無ければ成らぬ事と成り、兄婿とは云へ兔に角に多少の氣苦勞をせねば成らぬ境遇に置かれ、其や此れやで小さき心身を痛めた物か、間も無く不治の病氣に襲はれた。
       私は學窓に居て此通知に接したので、學業の閑を偸んでは歸鄉し、療養の方法を盡し、慰めもし、看護もしたが、遂に明治三十二年の徂く春と共に、私の膝に抱かれたまま、「兄やん、兄やん。」と私の名を呼ばりながら歸らぬ旅へ赴いて了つた。私は亡く成つた兩親が、私が妹を愛する事の足らぬのを草葉の陰から見て、自分達の手許へ迎へた物の樣に考へられ、自責の念と骨肉の愛とで、かなり苦しめられた物である。私は、私の學問の為に季妹を殺して了つたのであると考へざるを得ぬのである。
       爾來、燕雁去來茲に三十年、季妹の小さき石碑は苔の花に蒸されて、「碧雲童女」の法名さへ讀み判ぬ迄に成つて了つたが、妹の姿は常に私の眼底に殘つてゐて、私の下手な橫好きの學問の為に犠牲と成つた事を憶ひ出すと、何時でも、「可愛想な事をした、誠に濟まぬ事をした。」と雙頰を傳り流るる淚をどうする事も出來無かつた。私は此卷頭小言を書くにも、眼頭から熱い物が、紙上に落ちるのを止める事が出來ぬのである。
       巫女史の執筆が思ふ樣に運ばぬ折に、此妹の事を追懷した私は、「私の學問の為に死んでくれた妹の為に本書を完成し、そして靈前へ手向けてやらう、此れこそ妹を追善する唯一の方法である。」と考へ付くと、今度は其に勇氣付けられたか、暑熱も忘れ、難問も苦に成らず、殆んど筆も乾かず一萬言、ペンに亡妹の靈が乘り移つたのか躍る樣に奔つて行く。斯うして書き上げたのが即ち本書である。不出來であらうが、不詮索であらうが、私としては是れ迄の著述の中で、一番努力を盡した物であると同時に、一番、思ひ出の深い執筆である。私情を卷頭に記すのは慎まねば成らぬが、私としては本書の完成が、此私情に負ふ事の大なる為、實に止むを得ぬ事と諒察を乞ふ次第である。
       此小著を出す為に恩師柳田國男先生始め、先學同好の方方の深い學恩に對して、衷心からの感謝と敬意とを捧げる物である。殊に大橋圖書館の大藤時彥氏が劇務の傍ら私の為に諸書を涉獵して、貴重なる史料を提供してくれた厚誼に對しては、格別の恩義を感じた。鳴謝に堪えぬ次第である。
       最後に一言附記せねば成らぬ事が有る。私は從來著述に故人の名を引用する場合に、一切の敬稱を廢して、悉く呼び棄てにした。然るに私の父は、平田翁を狂的に崇拜し、此れを神に祭つて朝夕奉仕してゐた。其の子である私が學問の為とは云へ呼び棄てにするのは非道だと、鄉里の者から忠告された。其で故人に對しては翁と云ふ事とした。私も案外氣が弱く成つた物だと思はざるを得ぬのである。此れを以て自序に代へる。

        昭和四年八月二十日 Z伯号帝都訪問の日
                   本鄉弓街の書屋に於て

      中山太郎 識


  • [久遠の絆] [再臨ノ詔]