袴(はかま)

起源は明らかでないが、『古事記』『日本書紀』にその名が見えるので、歴史は古代にまで溯ることができる。古くは褌(こん)と袴の別がなく、一様にはかまといった。これは、はく裳から転じた名称だといわれ、古代から男子の象徴として服装の主要な位置を占めてきた。そして、近世に至って着用の範囲が広くなると、その種類も豊富になり、江戸時代末期までには、種々な変遷を見た。

古代の褌の形は、5世紀頃の埴輪の男子像によると、筒袖の短衣の下に丈が足首まで太いもので、活動をするときは膝下を脚結と呼ぶ小紐でしばっている。また685(天武天皇13)年に新様式の衣服が採用されたが、その袴は、比較的細目の白袴でズボン式のものと、括緒袴といって裾口に紐を通してしめるモンペ式のものであった。この二様式は、袴の基本型として後世には表袴・指貫に発展した。

正倉院御物には単・袷などで、襠(まち)のあるものやないもの、および開股式・閉股式などがある。これらは、紐が一本で脇を結ぶ簡単なもので、その形式は後の束帯の大口袴に伝えられている。

袴の主なものは次のごとくである。

表袴(うえのはかま)
束帯の項を参照。

大口袴(おおくちばかま)
束帯の表袴の下にはく赤色の下袴で、裾口を広く仕立てるために赤大口の名がある。袷の切袴形式で、前後つづきの一本の紐を右脇で結ぶ。色は赤を常とするが、白・濃色・黄色のもあり、地質は生絹・張絹などを用いる。

指貫(さしぬき)
『和名抄』に奴袴とあり、『伊呂波字類抄』には絹狩袴とある。指貫は括緒の奴袴で、無位の男子の服であった。古くは鷹狩の時にはく狩袴であり、一種の労働服でもあった。公家が用いるようになると絹で作り、衣冠・直衣・布袴などに広く着用された。指貫は八幅にして前後の襞を等しくし、丈が長く裾括りをした寛闊な袴であるため座礼に適した。足首のところで括るのが普通であったが、足を出さず袋の口を括って、踏んで歩いた時もあった。武家では指貫を六幅袴(前四幅、後二幅にし、後の襞を略す)にして作り、活動に便利なため好んで用いた。指貫より略式のもので、切袴にしたものを指袴という。これらの仕立て方は表袴や大口袴とは異なり、前後の紐が分かれている。地質は浮織・二陪織・綾・薄絹などで、色目は若年は濃紫・老年は白である。指貫の下袴は、丈は指貫より二寸(約7.5cm)ばかり長く、裾には括りがないのを重ねて用いると、裾に張りがでて歩きよいとされた。表裏同じ色の平絹で、夏は生絹、色目は15歳未満が濃紫、壮年は紅、老年は白である。

(こばかま)
『貞丈雑記』によると、指貫と同じ形式で、丈がくるぶしまでの小形のもの。常の服として武士の直垂(ひたたれ)や素襖(すおう)などに用いた。

四幅袴(よのばかま)
『貞丈雑記』によると、前後各二幅よりなり、丈は膝ぶしがかくれる程度の短いもので、裾幅を少し狭くして菊とじがある。古くは、庶民の平服として筒袖の短衣の上に用いた労働服であったが、鎌倉時代から下級武士も用いるようになった。

長袴(ながばかま)
鎌倉時代中期以降武士の公服・礼服として発達した直垂の袴は、上衣と同じ生地の足首までの半袴か大口袴であったが、室町時代には礼装は長袴を用いるようになった。長袴は半袴に対する名称で、戦国時代に武家の少年などが、素襖の袴を長くして儀礼に備えたのが、礼式に用いる風習の初めだといわれている。

馬乗袴(うまのりばかま)
乗馬用として仕立てた武士特有の袴で、とくに襠が高く、股が深く割れている。これは、『再訂江戸総鹿子新増大全七』によると、寛永の頃(1624〜43年)に江戸芝神明町の松葉屋理右衛門が仕立て始めたものといわれる。背に蝉形(一名鞍越)という薄板を入れ、襠や相引を高くして寄襞をとり、脛の出ないように作ったもので、裾にビロードなどの縁をつけた。この袴は、後には乗馬以外にも用いるようになって、一種の形式的呼称となった。宝暦の頃(1751〜63年)には、武士の間では緞子・紋織りなどで袷仕立ての贅沢なものとなったが、小倉木綿の茶縞など粗末なものも用いた。これと同じ形式で、襠と相引をやや低くしたものを半馬乗袴といった。また、各藩の十番町階級の武士たちが多く用いたもので、襠幅を半幅にして仕立てたものを十番馬乗袴といった。その他製作上には十布遣い・八布遣いなどの馬乗袴がある。明治以降の一般男子の袴は、この形式を踏襲したものであり、男子の正装として用いられた。

平袴(ひらばかま)
普通の袴という意味で、小袖の上にはく襠の低い袴である。半裃が一般化して肩衣と袴が分離し、袴が独立して、地質も独自の立場で選ばれるようになると縞を選用とした。初めは町人仕立てといって武士には用いられなかったが、天明の頃(1781〜88年)から江戸時代末期まで、広く武士にも用いられるようになった。しかし、文久(1861〜3年)以後は襠高袴が流行して、町人のみの着用となった。

野袴(のばかま)
武士が旅装や駕籠に乗る時に用いたもので、『嬉遊笑覧』、『守貞漫稿』によれば、形や裁縫は普通の平袴と変わりはないが、裾に縁布をつけた。これは野外で用いるものであるが、緞子・錦などの高級織物で作るものもあり、木綿縞はやや狭く仕立てた。御用達の商人は平日出仕の時は、羽織に縞の野袴をはいて江戸城内に入ったので、それが武士との明瞭な区別ともなった。

裁付・裁着(たつつけ)
近世の初期、南蛮風の影響を受けて作られたもので、伊賀袴・軽衫ともいう。股はきと脚絆を連結した形で、脛の背面にコハゼを五、六個つけて脚部に密着させたもので、コハゼの代わりに紐をつけたものを軽衫という説もあるが、この区別は明らかではない。山袴の一種で、もとは地方武士の狩の袴であったが、旅行などにも用いた。一般には、忙しい職業の人すなわち髪結床、料理人、江戸呉服大家の掃除人および暖簾掛除きをするなどの下僕が用いた。また嘉永・安政(1848〜59年)以後砲術を学ぶ時に、筒袖羽織に裁付を着用するものが多かった。元文(1736〜40年)の頃より、踏込袴が発達し、裁付を圧倒するようになった。

踏込袴(ふんごみばかま)
『倭訓栞』に「ふんごみ 踏籠の義、股引の類いにいへり、兵具にて鎖にてする也」とある。『守貞漫稿』には、野袴や裃および普通の袴と裁縫上はさらに異なったところがなく、踏込袴は裾に黒ビロードの縁をつける違いであると、また『嬉遊笑覧』には裾を細く作ったもので、軽衫と袴の中間のものであると見えている。元文から流行した踏込袴は、袴の襠を裾で次第に細く仕立てたもので、裾細袴ともいう。既に信長、秀吉の頃から直垂の下に用いていたともいわれる。また括緒をつけて膝下まで引上げてしばったともいわれる。野袴の一種であり、労働に便利である踏込袴は、徳川時代には半袴の代わりに武士の用いるものとなった。

山袴(やまばかま)
座敷袴に対する名称で、働き着、野良着などとして男女の用いる袴の総称。地方によって呼名も形も多少異なっているが、踏込袴・雪袴・猿袴・もんぺいなどはいずれもこれに属する。

行燈袴(あんどんばかま)
襠無袴ともいう。外形は馬乗袴と同じであるが、襠がないので、行燈のようになっているからこの名がある。日露戦争後に使われるようになり、昨今の男袴の多くはこの仕立てになっている。

女袴(おんなばかま)
女子が袴をはくようになったのは飛鳥・奈良時代からで、貴族の女性は下着として用いたが、平安時代中頃からは下袴の性格から脱皮して表に現われるようになり、服装構成上重要な位置を占めることとなった。これが俗にいう緋の袴である。室町時代から、小袖の発達によって公家でも次第に省略するようになり、江戸時代には公武家ともに平常は用いることが少なかった。明治時代に至って、宮中の婦人の制服として取り入れられて以来、現在も儀式の礼服として用いられている。一般の女子が袴をはくようになったのは1871(明治4)年からで、女学校の教師がはいた。さらに78年には女学生が紫の行燈袴を、90年頃には小学生の中にも平常、袴をはくものがあった。また1900年頃から華族女子学校でも用いられたので、女学生をえび茶式部といった。その後、女学校において制服として大正期まで広く用いられた。

→束帯、直衣、素襖、裃、旅装束、褌、股引、女房装束

参考:

江馬務「日本服飾史要」(『江馬務著作集2 服飾の歴史』昭51)
橋本繁『風俗画報』(122, 154, 156, 166, 168, 170, 172, 176, 180)
児玉幸多『図説日本文化史大系4 平安時代(上)』(昭32)
『同5 平安時代(下)』(昭32)
『同6 鎌倉時代』(昭32)

(前川喜重子)

日本風俗史学会編『〔縮刷版〕日本風俗史事典』, 弘文堂, 1994.